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2018-06-16 19:19:00
讃岐の家庭では、うどん料理を作って家族一同で食う、という習慣はあるのだろうか。(というのは、四国以外の土地では、うどん料理は家族料理として好まれるメニューだろうからである。)しかし、「さぬきうどんは香川においては外食の色合いが相当強いと思われる。もちろん生麵や冷凍うどんを買ってきて家で食べる習慣も他県に比べたら圧倒的に多いが、夕食に家族が揃って家でうどん、という光景はあまり見られない。」(前出、麵通団『恐るべきさぬきうどん--麵地巡礼の巻』320頁)★うどんとそばの関係、外食と家庭食との関係、これを日本全体について考えるには、遡って第2次大戦の終戦、日本がアメリカに占領されていた時代に戻って、それを行う必要があろう。(大丈夫、これから日本の外交を論ずるわけではないので。)★敗戦時、日本列島は飢餓状態にあった。コメなどロクになく、国民はサツマイモやカボチャやその他得体のしれない草や木の根で命を繋いでいたのである。占領軍(米軍)は緊急にいろいろの穀物を日本に供給したが、そのピカ1が、小麦粉であった(私たちはうどん粉と愛称した)。小麦粉を食用に細工するのに、当時の国民は、ひとつは、「きんとん」と称する奴、汁の中に水で練った小麦粉を適当にちぎって突っ込んだ奴(どこの家庭でも簡単に作れる)を作って家族で食べた(主食だよ)。もう一つは、これは家庭ではできない・パン屋がコッペパンを作った(今から思えばじつにまずいパンで、パンの評価を徹底して下げた)が、こいつを買って、ジャムかクリームをつけて昼食などにするのが当時の定番であった。これに牛乳瓶1本ついたら、涙の出るほどうれしかった)。やがて食品メーカーが小麦粉から「玉うどん」というものを作って売り、家庭はこの玉うどんを買って(あるいは、制作され始めた乾麺を買って)汁に入れてたべるようになった。昼食など、よく玉うどんだけ店で買って、持参のつけ汁で食べていたものである。(つまり弁当の代わり)多くの県で、昭和30年代ぐらいまで、これが当たり前の風景ではなかったかと思うが、如何に。★ただ、この時代の後遺症が、「煮込みうどん」という定番家庭料理である。このメニューにはなんでもぶち込めるから、熱々で、栄養価は豊富である。女性たちの労働には敬意を表すが、あれをおいしいと思って食う男性はいるか。掛けうどんぐらいなら、あっさりしているが。★外では、「煮込みうどん」はめったに食う男性はいない。まー鍋焼きうどんというメニューがあるけどね。熱々で、栄養があり、比較的に安いよね。終戦後10年程度の世相でした。(まーもっと読んでから、叱るべきは叱ってください。女性諸氏。)