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2018-04-20 16:49:00
東濃「今は昔」-下街道高山宿(7)★国民学校入学★昭和18年です。すでに物資は欠乏していて、ランドセルは紙製でした。皮製なんてありえなくなっていたのです。せっかくのお祝いということで、買ってはもらいましたが、材料がボール紙で、それを塗装しただけのものだから、あまり長くはもちませんでした。★学生服自体、たいへん悪い品質です。布が、「スフ」といわれた粗悪な材質でできています。「新品」のうちにこういう服はけば立っています。★通学では下駄か草履になりました。そういう履物しかないのです。下駄の鼻緒が頻繁に切れ、鼻緒をすげるのが一苦労でした。草履のほうは、履き古すとかかとのほうから崩れてきます。こうなるとはだしで歩くしかなくなります。★学校の体操の時間など(2年生から頻繁になりましたが)「はだし」でするものと決まっていました。裸足で号令通り校庭をあちこち駆け回ると、足の裏が痛みます。先生(訓導)は「この土の下に(裏側にという意味)敵国がある。アメリカを踏んづけてやる勢いを出しなさい」と発破をかけました。冬でも校舎内では足袋なしで行動しました。(ただ、1年生だけ、冬の足袋が認められていました。)★うちでは祖父が、自宅裏の納屋で、草履を作っていました。祖父の草履は「丈夫」という評判で、できたものを数足軒下につるしておくと、誰かが買ってゆきました。もちろん家族の草履はみな祖父が作っていました。材料の藁は農家から譲られてくるのです。★当時農家は、肥料としてし尿をたいへん欲しがっていて、定期的にうちにももらいに来ていました。