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2018-04-20 00:08:00
東濃「今は昔」-下街道高山宿(6)★戸外の様子★ずっと幼時には、高山の路上でよく見かけるものは、粘土(陶土)を積んだ荷車を、引く人、押す人、二人ががりて運ぶ様子でした。粘土はなんとなく、どこからでも容易に手に入るので、子供の遊び道具のひとつでもありました。なんとなく粘土のかたまりを、濡らしてこねくるのです。★陶磁器を焼く窯が戸外のいろいろな辺鄙なところにあって、窯に火を入れている様子を見かけることがありました。★陶磁器を焼く前の素焼きの状態で、工場(室、といっていましたが)の棚にびっしり並べられている様子も、よく見かけました。高山の溝の水はみな白く濁っていました(それが、戦争が激しくなるころには、白い濁りがなくなっていました。戦争とともに土岐津の陶磁器生産もだんだん停止するようになったのです)。★陶磁器生産がよく行われていたころ、こういう話を大人が好んでするので、よく覚えていました。この土地に「ぎさ」と呼ばれる身寄りのない年寄りがいました。なんということなく、地元で生きているのです。他方「きんた」という太った青年がいました。(この人物は、よく陶土を車で運んでいましたが、力はあるが、どこか足らない人だったようです)。この二人の日常が好んで噂にされるのです。この二人はお互いを非常に意識していて、おかしなことに互いに非常に恐れているんだそうで、あるとき「きんた」が夜中に窯に入った火を見張っているときに、「ぎさ」が寒いから火にあたりに来た。そうしたら、二人ともその場をパッと逃げたというのです。(高山はこの二人を養っていたわけですね。社会福祉もへったくれもない時代に、人々の心は社会福祉と同じことをしていたのでしょう。)