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2018-04-13 23:17:00
2018年4月13日・札幌。東濃「今は昔」-下街道高山宿(2)。前回(1)の最後に書いた「大竹千代子」さんは、当時の国民学校1年生ではまずカタカナをならったのだから、「オオタケチヨコ」と書くところでした。色の白い、まるで「誰かが触っただけでも泣き出しそうな子」でした。当時白い布に名前を書いて胸につけていたのです。同級生で鮮明に覚えているのは、「熊沢君」(名前は忘れた)です。2年の時に級長をしていたのが熊沢君なのでよく覚えています。当時の級長の主な役割の一つに、昼食時に生徒にふるまわれる味噌汁をみんなに盛ることでした。味噌が貴重品でどうやって学校がこの味噌汁を調達したのか知りませんが、味噌汁の実はわずかばかりの大根の千切り(これまた大変な貴重品)でしたから、生徒が自分で汁を盛ると、早いもの順に実の大根をすくってしまうのです。それで級長が盛る。★私以前高山を訪問した時に、池の東側を歩いていてひょいと表札をみると「熊沢」と出ているではありませんか。そのままお寄りしたら娘さんが出てきた。私が名刺を出したら、それをごらんになって、「北海道大学を志願している」と言われました。当地(札幌)に来られるときにはぜひお寄りくださいと申し上げたが、なにしろかなり以前の話です。北海道へは一向にいらっしゃらなかった。土岐津国民学校2年生の時の担任は加藤年子先生。★この池は、一度すつかり底まで浚えたことがあって、その時に底のほうに大量の小魚がいて、これを少しずつでも高山に配った。魚にお目にかかることなど、国民学校2年生(昭和19年)当時には絶えてなかった。一番近い港が四日市、もうひとつ遠い港が焼津、と言われていたが、(岐阜県には海がありません)魚などまったく入荷しません。(魚は統制外ですが)一度田島さんの店頭にサメの干物が並んでいて、うちでこの干物を買ってきたが、すっかり腐敗している代物で、一口かじるとガスがふあつと上がってくるという「食い物」。買ってはきたものの、結局家族は誰もこのサメの干物を食わず、卑しい私だけがこの「食い物」に一生懸命挑戦したという思い出があります。