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2018-04-11 21:08:00
ネット上で「下街道高山宿古地図(明治5年)」という彩色入りの地図に出会いました。現在の岐阜県土岐市土岐津町高山の明治初期の様子を示しています。地図上右側に「高山古城跡」がある。(いまその頂上は、見事に整備してあるそうですね。かって戦国時代に、美濃の織田信長と甲府・信濃の武田勝頼が、この城をめぐって攻防し、その時は織田方が負け。その時の死者300人とかを葬って弔ったのが、高山城頂上へ上る途上にある穴弘法だという由。この穴弘法へゆく路が、地図上高山の屈折している箇所でしょ。私はここの登り口に田中屋という菓子屋があったのを知っています。もっとも戦時中のことゆえ、ほとんど何も売っていませんでしたが。)図の左上に「高山村」と書いてある。この高山宿は、何十もの宿屋が街道に向かい合ってひしめいている当時の宿屋街で、まっすぐ西のほうへ向かうと、名古屋に二日で着く路程だとのこと。中山道から分かれて、名古屋に向かう脇道で、下街道と呼び、本街道である中山道から時々その営業について抗議されたという。(そのくせのちに鉄道・中央線が通るときには、鉄道がとおるのを好まなかったと見えて、鉄道ははるかに北のほうを通ることになった。こういうのは、当時日本の各地によくあった話。)★私は自分の家のご先祖がどういう人かをよく知らない。きっとここにあるたくさんの宿屋のどれかであろうかと思うのです。私の姓はこの高山ではありふれた姓のようですので。★この高山宿の図をみてすぐわかるのが、まず左側にある池です。図で高札場となっているあたりに、田島という八百屋があった。また、消防の詰め所があった。慈徳院という禅寺は、祖父がよく住職のところに碁を打ちに行っていたので覚えています。この高山宿の街並みでは、覚えている家が2軒あります。ひとつは、桔梗屋さん。もう旅館はしていなかったが、桔梗屋と呼ばれていた。それから旧尾張屋(現大竹醤油)とある醤油屋。私が国民学校に1年に入ったときに、「おおたけちよこ」さんという人がいたのを覚えている。店はちゃんと道路に面していたと覚えているが、とても大きな店でした。