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2016-11-28 16:11:00
大黒屋光太夫は18世紀末、紀伊の漁師。漂流してロシアに流され、露都ペテルスブルクに召喚されてエカテリーナ女帝に謁見した。日本に帰国し、結局一種の蘭学者として江戸幕府から待遇されて一生を終わる。ウイキペディアに記事が載っている。鈴鹿市は2005年に「大黒屋光太夫記念館」を設けた。井上 靖『オロシャ国酔夢譚』(1968年)、吉村 昭『大黒屋光太夫』(2003年)で取り上げられている。★じつは4分の1世紀前、ロシア(ソ連邦)のゴルバチョフ大統領が日本を訪問したとき、ゴルバチョフ氏は「日ロ間の懸け橋になった歴史的人物」として「大黒屋光太夫」の名をあげ、盛んに話題にした。ところがせっかくソ連大統領が盛んに話題にしているのに、これを聞いた日本側の歯切れが悪かった。ありていにいえばだれも大黒屋光太夫を知らなかったのである(むろん調べさえすればその名は知られようが、あまり人口に膾炙していたのではなかった)。お恥ずかしながら私も、当時とっさにはなんのことかわからなかった。★いま私は、たまたま石川淳「西游日録」『筑摩現代文学大系57』(1976年)を読んでいる。1964年にソ連作家同盟の招待で石川氏が訪ソしたときの旅日記である。この「西游日録」の9月11日の項で、石川氏はたまたま大黒屋光太夫の名と、彼がロシアに提供した書籍があったのに出合っている。残された書籍は、「草双紙浄瑠璃本」の類の雑書数冊と、節用集1冊であると。★その場所はペテルスブルクのエルミタージュ博物館の横にある「東洋学研究所」(石川氏が仮にそう呼んでいる仮の名)の図書室である。★私ももし当時こういう文章を読んでいれば、大黒屋光太夫の名に気が付いたのだが。★いまとなっては旧聞だね。