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2016-09-26 23:20:00
『徒然草』 188段 「ある者、子を法師になして、『学問して因果の理をも知り、説経などして世渡るたづきともせよ』といひければ、教へのままに説経師にならんために、まづ馬に乗り習ひけり。輿・車は持たぬ身の、導師に請ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、仏事ののち、酒など勧むる事あらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう境に入りければ、いよいよよくしたく覚えて嗜みけるほどに、説経習ふべきひまなくて、年よりにけり。」★この段には、「余事を捨てて大事を急げ、説経師のたとえ」という要約がついている。古来『徒然草』の段の中で人によく知られている箇所だ。ある親が子に勧めて、学問を修めて仏事の説経師になり、人々に仏事を説経するという職業についたらどうか、と言った。子は親の意見に従ったが、説経師になってから馬に乗ってくるように要請されては困るだろうからと、馬の乗り方を覚えようとし、招いてくれた信者の家で宴会の芸のひとつもできないのでは興覚めだろうと芸事を覚えようとし、乗馬も芸事もそこそこに上達してもっとうまくなろうと励んでいるうちに、とうとう肝心の説経を学ぶ暇がなくなってしまった、というお話。★人生では、この段に描かれたような人物に、よく出会いませんか。証券会社に入社した新人が、「しかるべき場での顧客の接待が何よりも大事だ」と聞かされ、宴会取り持ちに励んだはいいが、年数が数年たっても、肝心の株の知識も、会社の知識も、市場の知識も、学ぶ暇がなかったという。