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2016-09-20 17:10:00
小西甚一『古文の読解』第1章「むかしの暮らし」・「複数制の時間」(時間の表現)★ 「時の記念日」6月10日の起源は何か。天智天皇が初めて水時計(漏刻ろうこく)で時間を測り、その時間を鐘を叩いて知らせた、その最初の日が6月10日でした。「漏刻を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鍾鼓を動す。」(日本書紀)とあります。★ 48の刻み目のある矢を水中にさし、水を小さな穴から少しずつ落ちるようにした道具(漏刻)が、最初の時計です。この48の刻み目を12の時間に分ける。(各時間それぞれ4つの刻み目に分かれる)この12の時間に「十二支」を付けて呼びます。「子丑寅卯辰巳午羊申酉戌亥」ですね。「ね・うし・とら・う・たつ・み・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・ゐ」です。「子の刻」(ねのこく)のように言うのです。子の刻は、「午後11時から午前1時までを指す」としていますが、子の刻が「午前0時から2時までだ」という説もあるそうです。私は前者で理解しておきます。江戸時代まで(明治に入ってもしばらく)このような「時間の呼び方」が行われていました。★「子一つ」(ねひとつ)「子ふたつ」「子三つ」「子よっつ」の4つに分かれる。厳密な時点というより時点と時点の間の時間帯をさすことにならないだろうか。このなかの「丑の三つ」時(とき)が、古来幽霊の出る時間とされた。現在で言うと午前2時すぎということか。★小西さんがここで「複数の時間」と言っているのは、宮中でこそ時間の呼び方も厳密だったかもしれないが、どこでも宮中というわけにはゆかないから、結局他方でかなりおおざっぱな時間の呼び方も行われることになって、それだから同じ世の中にまるで違う時計があるみたいだったのではないか、という話題である。