インフォメーション

2016-09-13 11:17:00
この「インフォメーション」で「古典の読解」と『徒然草』を読むという企画を開始したら、ある方からメールがあって、ご自分も『徒然草』を読んでみるが、それと並行して、「英文の読解」の再学習をしてみたいと書いてありました。★ 私はこのメールをみて、はたと思いがけない問題に出会いました。和文古典の読解と、英文の読解と対比しますと、多くの参考書が暗黙に、本によっては「はっきりと」、「読解」とは「(日本語の)現代文に直すこと」だとするわけです。そうしますと、古典和文の読解、英文の読解、どちらも、「単語」、「文法」のさらに上に、「文章の組み立て」という課題があり、この「文章の組み立て」は古典和文と英文では、違うのだろうか、その反対に、かなり共通のものがあるのだろうか、という問題があり、さらにその外側に、いったい現代の日本語の文章の場合の「文章の組み立て」は、どのような原理に従ってどのように行われているのか、またそのようなことに真実に国民的合意があるのだろうか、という問題に出会います。★ 英文側はこの問いに対して、それなりに応えるルールをもっていると思います。しかし古典和文の側、現代日本語の文章の側はどうだろうか。私はこの答えがわかりませんでした。そこでぴたりと発言を停止したのです。★ 私の疑問に非常によく応えてくれたのは、丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年でした。9月初旬、ずっとこの本を読んでおりました。いずれ要点なりとご披露する機会があるとは思います。驚天動地の結論が導かれています。すくなくとも私のような素人には、驚天動地でした。