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4月中旬。札幌に小雪が舞って温度もぐんと下がったが、それはほんの1‐2日のこと、また10度程度の普通の気温に戻りつつある。本州では桜が散り掛かっているというのにね。それでも北国の春が来ているのには間違いない。
「ポスト工業社会」の「知価社会」が到来している、という話題を展開していた。その「知価社会」の特徴を強く帯びている「2008年リーマン金融恐慌」の陰に、世界がいま怯えてもいる。ポスト「リーマン恐慌」がどんなことになるのか、誰にも分からないのだ。
私は堺屋太一氏の「知価社会」時代という把握に強く共感する。同時に、私は、堺屋氏どおりではない。どの点で私が堺屋氏どおりではないのかは、いままで私が書いてきたことを丁寧に読めば、容易に分かるはずだ。
私は「20世紀資本主義」は、「国家資本主義」と総括していい時代だったと考える。経済恐慌が繰り返して現れることに経済社会が耐え難いので、国家が経済過程に干渉して「経済恐慌のない経済」を築こうとする時代だ。根本的なところで国家が経済過程を指導しようという時代である。堺屋がいう「官僚統制社会」である。
この20世紀の「国家資本主義」は、経済過程の基本単位に私的営利事業として経営される株式会社制度を据える事になった。もちろん国家が基本的には経済過程を指導するという前提の下において、である。私たちが今日「あたりまえ」のようにみなしている私的な営利事業としての株式会社制度は、歴史的存在であり、決して当たり前のものではない。
国家そのものも、20世紀には単純に自然国家・民族国家を当然とはできなくなっている。まずアメリカ合衆国が、近代が生んだ人工国家である(合衆国憲法は、国家成り立ちの契約のようなものだ)。20世紀は米ソ対立の冷戦に彩られたが、ソ連邦は紛れもなく人工国家である。そして20世紀後半にはEUという壮大な人工国家が誕生する。ファシズムドイツは人工国家だろうか、それとも純然たる民族国家だろうか。中華人民共和国は人工国家だろうか、それとも中華民族国家だろうか。わが日本は純然たる民族国家だろうか。(まー米国やソ連やEUと比較するのなら、英国同様に民族国家・自然国家だと考えていいとおもうが。)同じく経済過程を国家が「指導する」といっても、民族国家と人工国家では、議論のありようが随分違ってくる。多くの人工国家は同時に多民族国家であり、移民の受け入れについて独自の寛大な政策を取っている。その人工国家の成立そのものが、濃厚な国際性を帯びている。このような人工国家を、日本のような純然たる民族国家と同一視はしにくい。これに比べると日本のような国は、その成り立ちからしてぜんぜん国際性がないのである。
20世紀の「国家資本主義」という場合、主体になっている「国家」が、世界史的には人工国家優位になっていることは、認識せざるをえない。
それに最近は、中東に「国家なき国家」すら登場した。いろいろな意味で近年、単一民族国家の国家性がますます希薄になりつつある世界情勢である。
堺屋の図式に倣えば、20世紀の「国家資本主義」が1980年代から変質を始め、2000年ごろに「知価社会」として成立したということになる。
今の世界の様相をみていると、あるいは遠からぬ将来に経済社会は、巨大な「リーマン流金融恐慌」の再来によって崩壊してしまうことがあるかもしれない。
その場合、この「知価社会」なるものの中核にあいも変わらず「国家資本主義」時代の私的営利に奉仕する事業制度としての株式会社制度が存在していることに、強い関心を払って置いていただきたいのである。(せめて奥村 宏先生の法人資本主義批判ぐらいでも、念頭においていただきたい。)崩壊した社会を立て直すさいに、無条件でいまの株式会社制度で考えることは不当だと思いますよ。その前提として、現実の株式会社のありようを、ふだん丁寧に吟味してみる必要があります。これが果たして経済社会の根幹たりうる制度なのかという問題意識で。
この「知価社会」論。もっと丁寧に議論する必要があります。
いったんこの程度で止めておきたい。