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一概に社会主義体制といっても、それが何を具体的に指すのかがあいまいな場合も多い。いま「社会主義体制」を20世紀に現にそうであったように「ソ連社会主義体制」として考えてみよう。西欧社会に対比してどうしてソ連社会主義体制が魅力を失ったか。堺屋太一は『凄い時代』講談社、2009年の130‐132ページで、ソ連社会主義体制がロシア人にとっての魅力を失った根本的原因を、次のように述べている。「社会主義こそは、物財の生産を合理的にし、全国民に豊かな物財を与える理想的な近代工業社会体制のはずだった。だが、現実のソ連の暮らしは西側諸国よりずっと貧しい。」130ページ これをソ連はまず出発点の低さにした。次いで指導者の人のせいにした。 しかしこれではとうてい説明しきれないと、堺屋は言う。そしてソ連の工業製品が自国民に不人気の理由を、こう説明した。
「物財の豊かさは客観的で科学的だ。したがって、有能無私の官僚機構なら、今年の最適規格を決定し、計画経済によって大量生産を実行、最大の物財を供給することが可能になる、と想定することができた。」「しかし、満足は主観的で社会的である。人々の好みは多様であり、変わりやすい。官僚機構がこれこそは最適といっても、消費者が納得するとは限らない。」堺屋前掲書131ページ。
「消費者の満足は主観的で社会的で可変的だ」。これが堺屋の説く21世紀「知価社会」の特徴であって、このような「知価社会」が1980年ごろから発達し始めていたと言うのである。それ以前の「近代工業社会」はこの「知価社会」に圧倒されてゆくのだと。だから私は思う。このように議論するとき、20世紀の様々な歴史的社会体制はこの「近代工業社会」という一語に集約されていると。西欧社会もファシズム社会も米国社会も、ここでみたようにソ連社会主義社会もである。私はあえてこれを「国家資本主義社会」という一語で集約しただけである。いったい20世紀経済社会を語るとなると、「帝国主義体制」「独占資本主義体制」「植民地支配体制」のような「耳に馴染んだ」言葉がまず溢れてきて、20世紀経済社会の単純無比な事実(堺屋のいう近代工業社会)がすっかり度外視されてしまう。堺屋は「近代工業社会」という語の下に社会主義諸国を資本主義諸国と同一視するという「凄い」見方をとった。私は堺屋のこの「凄い」見方を支持するよ。
堺屋は続ける。「ソ連の官僚たちは、多様で気まぐれな消費者を満足させる規格を発見することなど不可能なのに気がついた。」131、「不可能を強いられる組織は倫理の退廃に陥る。1980年代には、ソ連の官僚機構も倫理的退廃に陥り、専ら組織の拡大と構成員の個人的な幸せだけを追求しだした。政策実現を目的とする機能組織が構成員の利益を追求する共同体になったのである。」132ページ。
もしこの話を単純に「商品購買意欲」の点だけで比較するならば、同様の図式がいま中国の人々が日本で「爆買い」している姿に当てはまる。いまたくさんの中国人が日本に旅行に来て買っている品物は、食べ物、化粧品、薬品、健康食品、電気製品その他さまざまあるようだが、どうしてこういうものを一人で何十万円も買うのか、見当もつかなかった。なにしろ旅行の費用よりも余計に買ったりしている。これらのものが生活必需品とはとても思えない。今日テレビで、買い物をした中国人を自宅まで追っかけて取材した番組をみて、納得した。文字通りかれらはこれらの品物の「効用」に満足しているのである。この程度のものは今の中国が全能力上げれば簡単に作れそうな気もするが、買っていった中国人たちがこれらの品物に感じている「効用」は、今の中国の生産構造からはにわかには対応し難いものばかりである。
これは堺屋の議論の例証としてはちゃちだが、爆買した商品は中国人にとっては堺屋のいう「知価社会の商品」なのだろう。
この堺屋の、「消費者の満足は主観的で社会的で可変的だ」という説明は、「主観的で社会的」というところが(なかなかうまく言いあらわせないところだ)、説明としてわかりにくい。堺屋前掲書ではいろいろの実例を挙げて説いているので、ご一見されたい。上の爆買いの例では、中国人たちがこの買い物に満足していることは多数の実例があることから明らかだ(これを「社会的」と表現しているわけだ)。またこの満足の内容が個人的には同様とはいえないのも明らかだ(これを「主観的」と表現しているわけだ)。
それから、このような説明だけでは、「知価社会」の内容が、「商品の購入ではなくて商品に付帯するサービスの内容に比重が移っている」というだけのことかといわれそうだ。そういう面がないわけではない、しかしそれに尽きるというものではないと、いまは弁解しておこう。