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2016-04-10 20:46:00

20世紀の「新しい」資本主義は、19世紀のそれと、どこが違うのでしょうか。前回の「20世紀の恐慌は?」という文では、20世紀の新しい資本主義は、19世紀のそれとは違って、政府が経済過程に干渉する資本主義である、と説明しました。政府が経済過程に干渉しなければならない理由は、さもなければ経済恐慌を防げないからです。資本主義が成立して100年もたつと、経済恐慌による急激な落ち込みに経済社会が耐えられないと感じられるほど資本主義が大きくなったのです。だから20世紀資本主義は、国家の目からすれば「恐慌が起きてはいけない社会」なのです。

20世紀の新しい資本主義は、19世紀にはない新しい制度を伴いました。それは、「株式会社」です。19世紀にも株式会社はありましたが、19世紀の株式会社は「公益を守る」存在でした。しかし20世紀の新しい株式会社は、民間の営利事業に許された存在です。ただ、20世紀の株式会社には条件がついています。政府が経済社会の持続の責任をとっていることに協力する義務です。砕いた言葉で言えば、「国策に従いなさいよ」ということです。単純な私益は国策の前には許されないのです。

株式会社において、一般には資本は株主持分というカテゴリーに閉じ込められ、いったん経営方針をきめればその執行を会社経営者という新しい人種に委ねます。資本機能である「生産手段と労働力との結合」は経営者を介して、資本家(すなわち個々の株主)とは独立した場所にあります。ご存知、このシステムは、資本主義の生産力の格段の前進をもたらすものでした。この新しい生産力を率いて、20世紀の国家は、一方では経済恐慌を押さえ込み、他方では経済社会の飛躍的な発展を図ったのです。(20世紀に起こった多くの戦争は、残念ながらこのような経済社会の発展をかなり相殺しました。国家が率いる経済社会は、他の同様の競争者と軋轢を生じやすかったのです。)私たちが今日「近代経済社会」と理解しているのは、このような20世紀資本主義でしょう。国際経済はあっても、世界経済はなかなかありえなかったのですね。

後日もう少し詳しく述べますが、この20世紀の新しい資本主義は、その「新しさ」にふさわしい「新しいイデオロギー」、「新しい経済学」をもつことになりました。それが近代経済学ですよ。19世紀末の「限界革命」から出発したという新しい経済学ですよ。最初に世界史的に確立した19世紀英国資本主義の場合、古典派経済学と今日呼ばれている経済学が存在していました。この古典派経済学では、経済社会の基本単位は「商品価値」に置かれていたはずです。しかしこの新しい20世紀の経済学は、経済社会の基本単位を「商品効用」に置くのです。

古典派経済学がもっていた経済循環、景気循環、経済社会の再生産という観点を新しい経済学は最初ぜんぜんもっていませんでした。後にケインズ経済学という形で「経済社会の再生産」という観点が追加されます(この近代経済学に追加された部分がマクロ経済学です。最初からの部分はミクロ経済学と呼ばれています)。

金融機能からいうとこの「法人資本」はどんな社会的機能をもっているのか。基本的には商業信用の機能しかもっていないのです。「企業相互がもつ商業的信用」ですね。「商業手形で表現される」わけですね。そして国家的金融秩序はこの法人企業の商業信用の上に乗っかっていたわけですね。じつは19世紀の資本主義の秩序もまったくそのとおりで、金本位制もすつかりこの上に乗っていました。物価撹乱が少なく、金利撹乱も少ない体制ですね。世にサウンドバンキングといいます。

新しい資本主義は私的営利事業に広く株式制をみとめていましたが、20世紀には商業信用に並んで産業信用も非常な拡大を遂げることになりました。ただ、政府は、商業信用と産業信用の間に一線を画して、産業信用のありようが商業信用とそれをベースとする国家的金融制度のありように入り込まないように警戒していました。そしてあの劇的な1929年恐慌が米国で起こったことの教訓として、産業信用と、商業信用および国家的金融制度の間に、強い一線を引きました。これがかの有名な「グラス・スティーガル法」でしたね。(まだ捨てていなかったら、経済辞典を引いてご覧なさいよ。)

1980年代以来レーガンだの、サッチャーだの、いろいろな「英雄」達が寄ってたかって「グラス・スティーガル法的秩序」をぶち壊し、これを「ビッグバン」と称しました。

このあたりから、「知価社会」という、新しい経済社会が胎動してくるわけなんです。