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2016-03-10 18:50:00

2016年3月10日、木曜日、午後6時、札幌の天候、ときどき小雪がちらつく。いまのところ積雪するほどではない。

マイナス金利の天気予報。前回、国内債権の海外売り出しという話題に触れた。

福島原発の損害についても、今頃になっていろいろわかったことが報道され始めている。(いままではマスクして隠していたのだ。)

福島原発は原子炉溶解が事故3日後に認められていたそうだ。東電も政府もそういう発表はしなかった。ただ、おやっと思うことは当時起こっている。米国は政府の指示で、米国人を東日本から一斉に退去させた。米国の独自判断か、あるいはしかるべき筋から米国政府に通告があったからか、原子炉溶解が起こっているのと同じ措置をとった。私は事故後仙台市に救援物資を送ったら、贈った相手に怒られた。「荷物を受け取るのにかなりの距離自転車に乗らなければならないが、それがたいへん危険なことだと知っているのか」と。しかるべき筋では仙台市が福島原子炉爆発の濃厚な影響を受けると判断していたのである。実際公式の報道でも福島からの放射物質が東京都に届くか否かが盛んに議論されていたし、静岡県まで飛んだというニュースもあった。

いま、じつは事故3日目にすでにこれだけわかった、と聞くと、ああやはりね、と思う。いまの福島の悪戦苦闘は、その流れで起こっていることである。4‐5年後は大丈夫などと誰が約束できるのだろう。

前回、法人企業の社員の米国での高等教育体制という話題をだしたが、たとえどんなにみみっちくとも、日本の法人企業の人材に関わる教育体制の実状を回顧し、たどってみる必要がありはしないか。

バターくさい法人企業という体制が曲がりなりにも日本で緒についたのはやはり第2次大戦後と、ごく最近のことであろう。まだ半世紀ていどしかたっていない。シャゥプ税制改革という米国からの指導を出発点として、税制の青色自主申告のような民主的税制が根付いてきたが、このような申告税制と、法人企業の会計制度の近代化は強く結びついていると思う。それまでの日本では、複式簿記制度など一般には行なわれておらず、大福帳(単式簿記方式)が常識であった。国民的にこの切り替えがすすむのがようやく1960年代ではなかろうか。

法人企業の形式だけは一般的なものとして宣伝されたから、しかるべき事業はたいてい株式会社化したが、しかしその内容は個人経営・家族経営に過ぎず、帳簿自体が形式だけのお飾りというのがおおくの実状ではなかったか。こういう会社にかかわる知見と技術が「経営学」「会計学」の名で世に知られるようになってきたが、その大部分が米国からの受け売りである。『経営学教科書』というカッパブックがよく売れ、それが「科学的経営法」とか、「ヒューマンリレーションズの重要性」を説いて世間を説得したが、現実に世間の会社が血道を上げていたのは、「労務管理」と称する「会社に労働組合を絶対に作らせまいとする画策」とか、業界団体との関係、政府筋に陳情する策略とか、はては暴力団との関係調整とか、支持する人間を当選させる選挙運動とか(かんがえてみれば多くの企業がいまでもあたりまえのように、同様のことをしている)、これをおもてだった経済活動といえるものかどうかという日常の中にあった。

それにしてもその同じ時に、ビジネス環境の近代化も進んだ。鷲ペンを使って伝票や帳簿に記入し、そろばんを使って計算する(3級以上でなければビジネスにはなるまい)、帳簿はきちんと閉じれられており、伝票は黒い紐できちんと括る。勘定科目に押すゴム印と会社のゴム印、手形を振り出すときに使う印字機と、手形無効の印であるペイド印。(米国の場合にはそろばんではなくて手回しの計算機を使っていた。)日本では1960年代を境にそれが次のようなものに切り替わってゆく。ペンに替えてボールペン。バインダー式帳簿の登場。そろばんに替えて電卓の出現。(これが1990年代にIT化してゆくわけですね。)

大学に経営学部を持ったらどうかという意見が出てくるのが1960年代。しかし最初は「仲間」すら相手にしなかった。というのも、最初は経済学部の中に「経営学科」をもとうというはなしなので、「仲間」の経済学者が容易に受け入れない。経済学部の中に経営学という講座もあるという程度ではなぜだめなのか、と。そもそも経営学なるものが経済学に対抗できるだけの素性があるのかと。いったい何を研究し、何を教えるのか。いったい担当者はどこにいるのか。結局一部の「商科大学」の地位をあげるだけのことではないかと。

(そういえば、それ以前から、商学という分野が存在したのです。)