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2025-10-14 13:05:00
トッド理論の基本になっている国民的「家族の型」は、ずばり、次のようなものだ。トッド氏『人類史入門』19頁の「トッドの家族類型」一覧表をもとにしている。「絶対核家族」。「子供は成人後、親元を離れ、結婚後、独立した世帯を持つ。遺産相続は親の遺言で決定。親子関係は自由で、兄弟間の平等に無関心。英米など。」「平等主義核家族」。「英米型と同様に、子供は結婚後、独立した世帯を持つが、相続は子供たちの間で平等に男女差別なく分け合う。フランス北部、パリ盆地、スペイン、イタリア南部など。」「直系家族」。「通常は男子長子が結婚後も親と同居し、すべてを相続。親子関係は権威主義的(親の権威に従う)で、兄弟間は不平等。日本、ドイツ、フランス南西部、スウェーデン、ノルウェー、韓国など。」「共同体家族」。「男子が全員、結婚後も親と同居し、家族が一つの巨大な『共同体』となる。相続は兄弟間では平等で、親子関係は権威主義的。」「外婚制共同体家族」。「イトコ婚を認めない共同体家族。中国、ロシア、北インド、フィンランド、ブルガリア、イタリア南部のトスカーナ地方など。」「内婚制共同体家族」。「イトコ婚を奨励する共同体家族。アラブ地域、トルコ、イランなど。」
2025-10-14 06:46:00
大なり小なり、物事が劇的に変わるときには、まず「思考枠の逆転」が起こっている場合が多い。今度日本でもらったノーベル賞だって、ニュースで知らされていることでは、「生理・医学」の場合、「免疫」という普通なら生理を助ける要因を、それがただ今の生理の妨げになっていたので、「免疫を制御する」という思考に立ったし、「化学」の場合、普通なら物体の実体を扱うのに、その物体にたまたま生じた特別の空間(空隙)のありように思考を集中したんだと。「逆手」から出発したところに、研究初期の「不評判」があったという。トッド理論も、最初は「とんだ保守反動思想」に聞こえるような「恐るべきおもいつき」からスタートしたと、トッド氏自身がいう。1970年代ソ連のブレジネフ時代に、ロシアの「家族の型」に根差す「人類社会的事情」にトッド氏はある種の「傾向」を認め、その傾向からソ連共産主義体制がまさに崩壊に瀕していることを読み解いた。この「予言」が「当たった」ことが、その後実に半世紀もの間トッド氏がこういう種類の政治的予言の試行錯誤を幾たびも繰り返して今日にいたるまでにトッド理論を巨大に育て上げたのである。年季が入っている。その「予言」が最終的に今やトランプ体制に焦点を絞っている。(そして私見では、どうやらトランプ氏はトッド理論に気が付いて、いくつかの事細かなトッド・シフトをとっているようだ。)このことが今のトランプ氏が「不思議な行動」をとるケースのいくつかを明瞭に説明するだろう。
2025-10-14 05:32:00
新しい思想に出会った者が最初に浴びせる「思想感」は、「これは保守反動思想ではないか」、「これは悪名高い人種論の一種ではないか」とするものだろうと、トッド氏自身がよく承知している。「人類の思想たるべきものは、何ものにもとらわれない個人主義に立つべきものだ」と自然に考える人は、「家族の型」という社会的・歴史的前提で考えるという思考は、「とんでもない保守反動」とトッド氏の思考を断じることになるやもしれぬ。もっともトッド氏は「トッド氏の思考が誰にとっても絶対の条件になるべきものだ」とは明らかに考えていない。「抽象的思考の世界」ではかのルネ・デカルトを生んだフランス思想界から出た人だ。抽象的思考に親しんで出発している人である。「こういう思考もありうる」と提示しているのだ。しかも思考の焦点は「政治」という狭いテーマに収斂している。/人種論というのは、ある人種に属する人間が人生で宿命的にある決まった行動様式をとると決めてしまうという考え方だか、ある国民が歴史的に属する「家族の型」がその国民の政治的行動に宿命的にある行動様式をとらせるというトッド氏の思想は、「ある意味で人種論のようなものだろう」とされても、否定はできない。確かにトッド氏の議論では、「国民的な家族の型」の影響から遠ざかる、あるいは縁がなくなってゆく条件がありうることも論じられてはいるが、この条件たるやとてもにわかには間に合いそうもない条件だ。要するにトッド氏は、おそるべき国民国家的政治論を示しながら、だからと言って人類普遍の抽象理論を全否定しているのではない。ありていに言えば、「こういうことも考えてみたら」としているのだ。
2025-10-13 18:25:00
10/14付け 朝日新聞では、解放人数20人としている。ガザの平和と復興が早急に実現するものと期待するのみ。
2025-10-13 15:27:00
じつは私は、年来、アングロ・サクソン流の民主主義に、正直のところひとつ大きな違和感をもっていた。それは普遍的に民主主義を語る際に「個人主義」を絶対の前提として語る仕方である。私個人は、この社会に生きるについて、自分が属している何らかの社会集団、家族もあろう、地域社会もあろう、職場もあろう、学校もあろう等々、をまったく除外して自分個人を考え、語ることはとうていできないと思っている。それがなぜアングロ・サクソンは、まったく当然のように「個人主義」を人類普遍の原理として考え、行動し、語ろうとするのだろうか。/最近ある政党の総裁が、自分が総裁になった以上、働いて働いて働くと口走り、話題になったが、私個人はこういう考えは十分理解できる。さっそく想起するのは次の歌詞であった。「海の男の艦隊勤務、月月火水木金金」。旧日本帝国海軍の「勤労意欲」をよく表している。「蛍の光、窓の雪」とは、たゆまず学ぶことを教えている。「青年老いやすく学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」もそうだ。「二宮金次郎の銅像」はたえず働くことを人の務めとして示している。日本の社会に絶えず流れていた勤労の教えは、簡単に日本人の想念から消えはせぬ。昔英国のコーンウォールで英会話を学んでいたころ、機会があってサザンプトン港に滞在した。そこのパブリックライブラリーで図書を閲覧していて、20世紀冒頭この土地に日本人海軍士官の一団が生活していたが、「その人々が休みのない生活をしている」とあきれて書いてあった文章に出会った。(ナニ私もその人々の子孫なのだろう、休日になってもさっぱり遊ばないと、冷やかされていたので)これは日露戦争の開戦に先駆けて、英国に発注した軍艦を日本に回航する任務を負った士官たちだとすぐに気が付いた。