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手形というものは、本来、個人資本家の金融手段で、短期の(長くとも6か月、通例2-3か月)商業金融手段で、手形の振出人はそのようなごく短期間の支払い猶予を、たとえば仕入れ品の支払い猶予として振り出すわけです。戦後の北海道(日本)でも、手形がそういう商業的金融手段になりえるということはすぐに理解されて、盛んに小企業でも手形を用い始めるのです。新聞でも盛んに書かれていたはずです。もっとも新聞が話題にするのは「困った現象」のほうで、手形振出しの根拠などは手形面に記載されない、大半のケースでは、とにかく誰かが手形を受け取って、これをカネの支払い同様に扱ってくれさえすればよい。そこで例えば二人の事業家がお互いに申し合わせて相互に手形を振り出し(同時に相手の手形を受け取る)、相手から受け取った手形を金融手段として他の人間に渡してそれから資金を受け取るというようにすれば、(手形の受け渡しには手形に裏書というものをして渡すのですが、)この最初の二人の事業家にとっては短期の資金調達の手段となる。(手形には支払期日が明記されている。支払日にちゃんと支払ってあれば、この手形の振り合いはいつまでも続くでしょう。)新聞ではこのような企業相互の手形金融を「企業間信用」というもっともらしい名称で呼んで、当時の新聞は盛んに書いていたものでした。(とうてい支払えない手形を振り出す事業家が頻々と出てくるからです。大元の二人の事業家はもとより、この手形を受け取った人々の中に倒産が頻発するからです。)北海道にはこの単純な連鎖倒産が当時絶えなかった。/ただこれは手形の悪い事例で、本来的にはこの手形制度は資本主義発展の本流であり、銀行(いわゆる商業銀行)自体がこの手形制度の活発の中から生まれたものです。いわゆる紙幣(銀行券のこと)も、もともとは銀行が発行した手形が、商業専用から一般的な金融手段にひろがったものなのですから、手形制度なくしては銀行制度も貨幣制度もとうてい今日のような発展を見ることはなかったはずです。//なお、今日の日本では、銀行の手形取り扱いは、消滅しつつあります。念のため申し添えます。ここで話題にしたような、国内の商業手形は、消滅しつつあるとしてよいでしょう。ただ、今の世の中には、国際環境という恐るべき世界がありますのでね。
北海道銀行の新しいビルが大通りにできた昭和40年・1965年ごろの手形・小切手環境をたまたま回顧した前回の投稿だが、このつい昨日の北海道の商業環境は、いまや大多数の人々の記憶には全然ないのを知って、今昔の思いである。しばらく冗言を書こう。//なにせ北海道(日本)経済は15年戦争と言われた満州国建国・支那事変・太平洋戦争の期間に自由な商業など全然見られなくなっていて久しいところに、敗戦で、戦後はだんだん自由な商業を発達させてきた。手形・小切手も戦前同様使われるようになってきたが、それを使う人々にはまるで新規の技なのである。だんだん量が増えてきた手形も、現実にはその大半が当時急に伸びてきた自動車ローンの割賦手形である。銀行は毎日銀行間で手形交換して、そのときに手形を振り出し人の銀行口座から落とす。初めから口座振替で精算できる銀行間体制になるには今しばらくかかったのだ。そもそも北海道拓殖銀行以外の新銀行が北海道に誕生するのが大事件で、そんな人材が出来合いで大量に地元にいるはずがない。新規採用された人材中でも「銀行業務の経験者」が優先されたが、これが戦時中の日本のいろいろな金融機関の引揚者であったから、新銀行の業務内容がなかなか統一されにくかったのである。私が上司と仰いだお人は旧朝鮮銀行の出身であった。島本 融頭取は、大蔵省のヨーロッパ駐在財務官という要職にあったひとだが、大蔵省退職後の人生を新天地北海道の銀行業務にかけられた。この人は長野県の出身で、父親が島本銀行という個人銀行を建てて、若いときにその窓口にいたりもしたと自分で言ってもいたが、お客さんが窓口に若い自分がいると、信用できないと言って帰ってしまったりしていたと自嘲していた。(それじゃ官途について身をたてたほうか安心だものね)/私はこの銀行はもし外国人が窓口に現れて自分の小切手などを示した場合、実務的にどう処理するのか、内心危惧していた(当人が書くサインをちゃんと処理する手順があるのか)が、いろいろなことをがたがたいうのも気がひけるから黙っていた。(なにしろ私が外国為替を学んでいたと言ったら、店頭の行員が、あなたそういうが、この店頭の円ドル交換率の標示は、わたしの知るかぎり変わったことがなかったよ、為替相場が不変なのに、外国為替の特別知識なんか何の役に立つのかねとのたまうた。確かにね。実は正直のところを言うと、私の外国為替実務知識とは、戦前の横浜正金銀行時代の「支那為替」についてのもので、この知識であれば東京銀行の現在の職員と語り合っても十分なものであったのだ。戦前で為替知識と言えば、支那為替という難物に極まっている。)//しかも当時パーソナル・チェックという、銀行口座をもつ個人がふりだせる制度を始めて、さかんに客に勧めていた。私が見習いではぃつた支店の支店長は盛んに自分のパーソナル・チェックを切りまくって、これに当時まだ珍しいサインペンを使っていた。支店長というものは(次長が店内業務をすっかり吸収しようとするから)店内で業務があまりない。見習いの私を連れて午後に「集金」のために大口顧客を回ったりしたが、大量の紙幣をこの時支店長がその場で数えて受理するのを見ていて、支店長でも直接に大金を扱うことがあると思い知った。閑話休題。
7/2 東北放送 配信 「100年前の(白石)町長が発意して100円貯金」。/100年前に当時の白石町長が、当時100円の大金を(私財)、長期の郵便貯金として積み立てておけば、200年後ぐらいにはその利子収入だけで町民の税金を肩代わりできると考え、実行されたというお話。//私は図らずも今から60年ほど以前に旧道銀のご相談センターの経済コーナー(エコノミストコーナーと称していた)というものに勤務していたが、なにしろ私固有の業務というものがない。たまたま発生したいくつかの業務を書こう。1.道銀のたしか道南方面支店の住吉隆さんという行員から、ご相談と称して伝えられてきたのは、「お客さんがたばこをやめて、10歳の長男の教育資金として積み立てたいという。10-15年後に得られる資金額を計算してほしい。」そんなこと、べつに模範解答があるわけではない。「仮に道銀の最も有利な定期預金にしたら」という仮定を勝手に設けて、試算し、回答した。//いま回顧すると、そのとおりにやったらどうなったかなあ。今東北放送の配信の事例を借りると、日本の定期預金による積み立てが複利計算で堂々と伸びていたのは1980年ごろまでである。幸いこのお客さんの趣旨は見事立ったなあ。(まあその後金利は低位になった。)//2・もう一つ、これは当時の道銀重役会議の諮問にこたえたもので、当時住宅金融に対する貸付に「アドオン金利」という方式を採用しようという気風が市場にあつたが、この方式だと貸し付けの年数の違いにより「実効金利」がはなはだ相違する実態があるので、この方式の扱いに重役会は審議が滞っていると。諮問を受けてから比較的に短い間に、私は試算して(高校数学レベルだが、指数計算が主になる)丁寧にグラフ入りで回答した。ご心配のごとく貸付期間に応じて「実効金利」がものすごく変化する。とりわけ短期の貸付であると仰天するような年が生じる。/重役会議がどんな議論をしたか私は臨席したわけではないから知らないが、このアドオン金利方式は以後当然のように車のローンの貸付についての定番となったが、ただし短期は認めず相当の長期にすることと、金利計算を窓口の行員は行わず、道銀の上位行からもらった「定型的計算表」を行員が携行してその表をかならず参照するという具合になったのである。今も銀行は当然のようにこのアドオン金利方式を遵守している。この場合の年々の金利は、実は人為的に均して、年数によって実効金利の激変となるのをやわらげているのであるが。(いまの銀行員は当然にそういう事実を知っているのでしょうね。)それにしてもアドオン金利方式というのは、銀行の方に有利すぎる貸出方法だとおもうけどね。(興味ある向きはご自分で計算して、銀行員と論争でもしてみたらいかが。)(詳しい説明は抜きにしますよ。大昔の話で、記憶ももうろうとしていますので。)//なおこの住吉隆さん・小樽商大出身・とはその後無二の親友となつたが、この快漢、惜しくも比較的に若年で故人となられた。//ちなみに当時の道銀の扱う手形にはこの自動車貸し付けにたいする顧客の返済が手形・小切手で大量にあふれ、顧客が手形というものに慣れていないので、手形の支払銀行を「たまたま市中で見かけた銀行の支店名を記入しておいた」というような仰天事件が頻発した。
道新 7/28 2頁に配信された 「札幌中央信組賃料収入で『学生職員』支援」という記事。//札幌中央信組が山鼻支店(S16W8)建て替えに際し、新しい建物は、向かって右側が、1階北海道銀行山鼻支店、2-3階が札幌中央信組で、左側が職員マンションであると。ここからが「仰天」の「ワクスタ」プランで、札幌中央信組は年間6人を北海学園大学夜間部の学生を採用し、かれらが容易に就学・卒業できるよう「通常より1時間短い勤務で支援金1万7千円をふくむ月収19万2530円、賞与を含む初年度年収268万円を予定、かつ実質負担月3万円で建物左側の職員マンション1LDKへ入れる。卒業後は勤務継続だが、他への転職も妨げない」と。そしてこの「ワーク・&スタディ」の経費として、道銀の協賛を得て道銀への賃料をこれに充てる由。//私は図らずも昭和39-41年に、旧道銀跡地に開かれた西2丁目道銀ご相談センターの「経済相談コーナー」で、担当者・顧問・蛯名賢造教授に「助手」として付いた際のことを思い出した。もっとも経済相談などはあったためしが少なく、道内地方の開発行政相談に見えた方々の案件ばかりだった。蛯名先生は北海学園大学教授で開発研究所の要職にもあったが、先生のゼミの学生を週1回呼んで、センター内で国際経済のゼミを開いてほしいと私に丸投げされたので、国際金融中心に私が自分の得意を生かした指導をした。10数人通って見えたが、個人的に頻繁に相談に来た人もいた。今思うとこれが私の大学教職経験の始まりで、私はその後昭和42年から新設札幌大学、昭和45年から北星学園大学に職を移すのである。国際経済学担当。//この時知り合った北海学園大学の学生、笠松さんとは、その後個人的にも長い交際が続いた。笠松さんの兄さんが、当時遠軽信用金庫の常務理事で、そのご縁で遠軽信金の経営上のご苦労など弟さんを介して私ながらに学んだ。最大の苦心は、地元に貸し付け需要が乏しく(したがって預貸率が好転しにくい)という、今日の稚内信金同様の地方信金の悩みである。私は札幌大学時代の教え子、石郷岡さんという快青年を遠信に採用していただいたが、石郷岡さんは遠軽で結婚された。(詳しくは省くが、残念ながら故人です。)いま月寒に遠軽信金の札幌支店があるのをしょっちゅう眺めながら、いろいろ思いだす。私自身の北海道学習の一部になった。
7/15 北海道新聞、20頁に、拓銀・道銀合併談談が流れたことについての、元日銀マンの回顧録が1頁に亘って載っている。このページの上の方に、旧拓銀と旧道銀の大通り本店の写真が載っている。30年ほど以前を回顧すると、郷愁がある。/私は昭和39年に、この道銀本店が建築されているときに、道銀のお世話になった。当時西2丁目にあった低い建物が道銀本店で、そこからこの写真のある大通り新店舗に引っ越したのである。当時道銀に新しい調査部を設けるという内意でお世話になった。だから競争相手の拓銀大調査部を念頭から去ることがなかった。何しろ資本金額で道銀は拓銀の10分の1しかない。その歴史の長さからいってもとうてい及ぶ相手ではない。ところでこの本店どうしを比べると、ほぼ同じ高さだ(すこしだけ道銀の方が劣るか)。まさに背伸びしたのだ。/この道銀本店写真を見ると、右下の窓に2枚のパネルがぶらさがっているのがわかる。実はこのみみっちいアイデアの主は私で、そのころは店舗の外側の広いガラス仕切りにこういうパネルをつるすという考えはほとんどなかった。ある会合で島本頭取に、思い付きとして述べたら、「さっそく工夫してみよ」ということで実現したものである。たいへんにささやかながら、アイデアの形だったが、「目に見える」私の存在証明になる。もうこういうケチな案は未来の新本店ではなさることもあるまい。