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「国語こそ最強の教養」(中央公論2026年11月号特集)コメント第5回
この第5回は、(7) 説明の時代、雑談の行方。(谷川嘉浩氏) です。
正直のところ、この谷川エッセイへのコメントは、非常に骨が折れます。
ひとつ、単純な方法がある。このエッセイには「令和に涵養すべきアブダクションの魅力」という副題がついている。この副題がこのエッセイの「売り」だというのなら、コトは簡単。この「仮説を建てる推論(abduction)」という「説明」のありようが、最近ル―ビッグ(Rubic)という「学習の評価基準を段階別に示したマトリックス表」を使う評価のやり方としてはやっている、と説けばよい。読者は「アブダクション」と「ルービック」をAIに聞くとよい。たちまち、参照をお勧めするWEBがぞろっと提示されるから、それをお読みになればよろしい。まあ、半日ぐらいかかりますが。(きっとこの副題は、編集部が付けたのでしょう。)
もう一つ、単純な方法がある。「雑談」の真実のありようを知りたいと、まじめに問えば、76-77ページに書いてある「カントの『教育学』で示されたという」、話し合う者同士の信頼こそが真実のありようだということ。この文科省もきっと賛成するだろうまじめなありようは、参考文献として挙がっている高木祐貴『カントの道徳的人間学』を読まれれば、あなたも満足されよう。(根本的に、倫理学の論法ですから、易しくはないでしょうよ。)
でも、このエッセイにおける谷川氏の狙いは、楽しく人間同士が語り合うことを、大事にしましょうというところにあります。(これはAIには全くできないことです。)このエッセイの書き出しが、「なぜこれほど説明が求められているのだろうか。」となっている。その端的な答えが、結末の、「人間同士が話し合うことを楽しみましょうよ」としているわけで、その途中に延々とのべられている蘊蓄は、「実際には、ノウハウや考察そのものが求められているわけではないのではないか」と、ちゃんと始めからそこはエッセイの本旨ではないとことわっておられるのです。(もつとも、読者がどの程度こういう組み立てを意識するかは、大いに疑問ですけど。)
確かに「ノウハウや考察そのものが求められているわけではない」としても、そこで紹介されているいくつかの「ノウハウや考察」は、これをすいすいとみな理解する人がいたらお目にかかりたいくらいだ。チャールズ・サンダース・パース氏の「仮説形成論」ですと⁇ 「問いを提示する意義」ですと⁇ 「雑談」ということの前提は、これが文字に定式化されない「声の文化」で、いわば無文字社会時代の文化がかかわるから、「文字を内面化した私たちには想像しにくい」ですと⁇ これを問うていけば哲学上および人類史上のとてつもない大議論になってゆくわけだ。まあパース氏についてだけでも調べてごらんなさいよ。しかし、このエッセイでは、谷川氏はじつにスマートにこういうトピックを説明しています。そこがこのエッセイの「内容的」読みどころかもしれませんね。
これでは、得体のしれないコメントです。どうぞ実際にこのエッセイを丁寧にお読みください。実に得るところの多いエッセイですよ。