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2026-10-27 04:59:00

「国語こそ最強の教養」(中央公論2026年11月号特集)コメント第3回

八編のエッセイが載っています。

(1)は、パスします。

(2)は、第2回として、終えました。

(4)(6)(7)を、先にコメントします。「不定形」の内容で、難物ですから。

次に、(3)(5)を、取り上げます。「正攻法」の内容で、難しいが、整っているので。

(2)を、最後とします。「国語」総体を問題にしていますから。教育という切り口で。

この第3回では、(4) 現代に必要な「読解力」とは(伊藤氏貴氏)、をコメントします。

このエッセイは、頻繁に生成AIを利用しながら、ネット上でほとんどの社会生活を行っているような現代人にとって、「国語」とは何なのだろうという問いかけで、始まります。

現代人が直面している事情は、インターネット上の文章のやりとり、そこでは映像、とりわけ動画、が重要な要素となっていること、そして、まさに生成AIの利用が、インターネット交信の中心的要素となっていること、の三つではなかろうかと、分析します。要約すれば、「SNS、動画、生成AI」という三つであると。

それにしても、この「SNS、動画、生成AI」との関係で、現代人の「国語読み書きの力」が足りなくて困っているというわけではない、と断言できます。別に誰も困っちゃいませんよ。

具体的に見てゆきましょう。

「SNSは人々が活字をやりとりする機会を大幅に増やし、活字離れどころか活字まみれの状況を生み出した。だが、そこにある文章はどれも極めて短く、(だから読みやすい)」

「以前は文字で説明しなければならなかったことが、現在は映像で見せることでよりわかりやすく伝えられるようにもなった。映像をみれば、わざわざ文書を読む必要はなくなった。」

「生成AIに関しては、その発達はことばの操作において極めて高い能力を示すようになった。大量の文書を要約し、あるいはそこから必要な情報だけを抽出整理してくれる。情報処理のために大量の文書を読むことはもはや必要でなくなった。」

このエッセイが主題にすることは、国語での「読解力」というものは、ネット暮らしの現代人がすっかり見落としている事情の中にある、というのです。そのこととは、生成AIというものには、自己がない、これを人格のように扱うのは根本的におかしい、だから生成AIには、「自分の意図」というものが存在しない、ということです。(文の表面通りの、ごく形式上の意図しかない、と言い換えましょうか。)生身の人間が駆使する国語の中にしか、ひとの(真実の)意図は、ないというのです。

ことばの中に意図があるのは、誰でも当然と思うでしょう。伊藤氏がこのエッセイで強調しているのは、実は人の言葉には「話の裏」というものが常にある。非常にしばしば、この「話の裏の意味」というのが、話の本当の中身なのだということです。

現代人は、生身の人間同士の話というものから遠ざかっていると、国語が当然に維持している「話の意味、意図」というものを読む「読解力」が失われているということを、ここでは書いている。

これはたいへんに語りにくいテーマなので、実際にこのエッセイを丁寧にお読みいただくしかありません。私がここに書いたコメントは、話のスケルトンだけですよ。