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「国語こそ最強の教養」は、『中央公論』2026年11号の特集記事です。下記のとおり。
1. 原点は読む「楽しさ」にある。 小川 哲氏
2. 現場から見た高校国語再編の意味と無意味。 矢野利裕氏
3. 感想文から多元的思考へ。 渡辺雅子氏
4. 現代に必要な「読解力」とは。 伊藤氏貴氏
5. 私たちが古文・漢文を学ぶことの技術的な価値。 田中草大氏
6. 「正誤」の枠を外して、日本語の変化を味わう。 飯間浩明氏
7. 説明の時代、雑談の行方。 谷川嘉浩氏
8. AI時代だからこそ身につけたい「軸」。 岡野原大輔氏
以上八編のエッセイについて、一篇ずつ、コメントを書いてみましょう。
ただ、取り上げる順番は不同で、(1)については、勝手ながらパスさせていただきます。
今回の「国語こそ最強の教養(中央公論特集)」コメント第2回では、(8)を取り上げます。
(8) AIだからこそ身につけたい「軸」
岡野原氏が指摘する「AIを使うときに重要な心得」というのがこの「軸」で、それは次のことに帰着します。
「AIが示して来る文章に、AI自体は責任を取らない」。だからこの責任を人間がとらなければならない。AIに仕事をさせながら、仕事の責任を、人間がどうとってゆくのかを考えることが、基本的に必要なことである。「そのためには、人間自身が高い解像度で世界を知り、AIが出した結果を検証できる判断軸をもっていることが前提になる」と、非常に厳しい自己研鑽の必要性を、氏は、提案しています。(生成AIがいま文章を提示してきても、AIには「自分というものがないんです」よ。それを何か、具体的な他者がそこにいるように思ったら、まったく見当はずれですよ。ご自分が飼っているペットの犬か猫のように、AIを一個の生物として扱うのなど、もってのほかですよ。冷たい無人称の世界なんですよ。)
このエッセイの後半で、氏は、「生成AI基盤モデル」というものは、現在圧倒的に米中二大国が牛耳っているものが多いから、どうしても日本国産のモデルを確保すべきだといいます。なぜか。「先行する米中のAIでは英語・中国語のデータや利用者が圧倒的に多いので、基本的な考え方や思想も英語圏または中国語ベースになる。」「日本語データもそれなりに入っているが、英語・中国語に比べてれば微々たるものです。」
それはよく分かる。しかしさっき「AIが生成する文章を利用する人」がその仕事に根本的責任を負うのだという議論をしたばかりだ。どうしてここで、その生成AIの基盤システムを、企画し、構成し、動作させている開発事業者の責任は、問わないのですか。(AIが間違った仕事をしたとか、他のプログラムに誤って侵入したとか、最近なにかあたりまえのように世上では話題にされますが、開発・運営の任を負った者の責任は、米国製・中国製・日本製を問わず、重大ではありませんか。)