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2016年3月4日、金曜日、午後7時、札幌の天候。今日日中一日中、ときどき雪がちらついていたが、脅威感なし。気温は定温に近い。概して穏やかな天候。明日以降の天候は期待できそうだ。春も近い。
マイナス金利の天気予報。ところで、株式会社が存在する現在の経済社会の構造は、普通、どのように描かれるものだろうか。
私はこう考える。
まず、国内だけで考えてみよう。
主体は3つ。「国家」-「法人企業」-「国民」。この3つが、主体。
この国のあらゆるヒトは、かならず「国民」に属している。「国民」だけが、ヒトの集合である。
「国家」も、「法人企業」も、機関であって、ヒトではない。
民主主義国であるから、政治的主権は「国民」にある。基本的に、国のありようを決めるのは、「国民」である。
「国家」は、この経済社会を調整する機能をもっている。「国家」の権限は、「国民」に由来する。
「法人企業」は、この国の経済的主体のように振舞おうとするが、その振る舞いは「国民」の中から出た株主達によって決定され、「国家」によってその行動を制約される。
純粋経済的な側面に絞って、「国家」、「法人企業」、「国民」という三者の相互関係を描いてみよう。
「法人企業」は、「国民」から、生産要素のうち、労働と土地を「購入」(借用としておこうか)し、代金を支払う。***商品Aとする。
「法人企業」は、生活資料とサービスを「国民」に販売する。***商品Bとしよう。
「法人企業」は、お互い同士で、生産資源(設備、原材料)を売買する。***商品Cとしよう。
「法人企業」が挙げる利益を証券化したものが、株式である。「国民」は家族、家屋敷、家財道具をもっており、貯金したりもするが、「有利な貯金」であることを目指して「法人企業」の株式を買い、配当を受け取る。しかしこれにともなって、株主になった「国民」は、「法人企業」の株主総会に出席して意見を述べ、投票する権利をもつ。
「国家」は、「法人企業」と「国民」に課税し、その対価として、「法人企業」と「国民」に対して「国家サービス」端的には「行政サービス」を提供する。「国家」は、課税徴収権を証券化した「国債」を発行するが、「国民」の中には有利な貯蓄として「国債」を購入する者もある。
まあこういう具合になっているんではありませんか。
「マクロ経済学」の教科書というものがあって、そこに「政府」、「企業」、「家計」と設定されていた主体を、経済社会の構造を考えるために、私はこのように再現したのです。19世紀イギリス資本主義が「自由放任レセ・フエール」していた「個人資本家」と、この上の図に出てくる「法人企業」は、まったく性質の違う存在ですよ。19世紀の個人資本家の「自由放任」に対して、今日の「法人企業」は、「国家」から強い制約を受けるのを免れることは出来ません。
そもそも「法人企業」はヒトではありませんから、政治上の主権には一切かかわりません。(かんがえりゃ、法人企業が政治献金するのは、おかしなことですよ。)
しかし現実には、お互いよく知っているように、「法人企業」はこの経済社会の中心であり、主人公として振舞っています。
それにしても、1990年ごろの世相は、ひどかった。当時勢いのよい会社の社員達と、飲み屋であろうが、結婚式場であろうが、出会おうものなら、この人々の傍若無人な勢いに辟易したものである。それからバブル期というものがきて、こういう風潮は収まったが。
ちなみに、本来は「法人企業」の出資者(株主)を「社員」とよび、「法人企業」に雇われて働く者を社員というのはおかしい。しかし現実には雇われた人々のことを「社員」と呼び、出資者はたんに「株主」としか呼ばれていない。まあたいした混乱もないが。
ところで19世紀の大土地所有者は、どこへ行ったか。
2016年3月3日木曜日、午後2時、札幌の天候。午後になったら雪が降り始めた。これでもし強い風が伴うと、たいへんな天候になるかもしれない。ひな祭りだというのに、なかなか春がこない。
マイナス金利の天気予報。前々回、19世紀のイギリスで大土地所有者階級(地主階級)が社会の調整者の役割を果たしたと書いた。
それにしても、「資本主義が世界史的に典型的に確立した」というイギリスの資本主義は、20世紀に向うころには様々な問題点が生じてきた。19世紀の「自由放任主義」は続かず、20世紀には国家が経済過程の直接の調整者として現れるに至る。
1. イギリスに遅れて資本主義世界に参入してきた諸国は、国家が直接に経済過程を支配する政策をとってイギリスを負かそうとした。
2. 経済社会の規模が拡大してくるのに伴い、景気循環という資本主義のメカニズムが社会的に苦痛になってきた。よしんば資本主義が継続しえても、激烈な経済恐慌に社会がますます耐えられない。国家が直接に経済過程を調整することによって社会を救おうとした。(19世紀末の1870年代にイギリスを襲った大不況は、二十数年継続し、社会的大問題とされた。)
3. 国家が経済過程を調整するありようは、国によってありようは違っても、20世紀の世界に共通の現実である。たとえば管理通貨制度。資本主義の貨幣制度は金本位制度であったが、20世紀に入ると管理通貨制度が通例となってきた。
4. 重化学工業の勃興期に際会したこともあって、19世紀には公益的にしか適用しなかった株式制度を、営利企業にも適用するようになった。しかしとりわけアングロサクソン資本主義では、国家が経済過程と社会過程を調整するありようのもとに株式会社の運用は制約されるという原則が生まれている。たとえば、競争政策(反独占政策)。これはだれでも知っているだろう。もうひとつある。国家が労働者に対して、営利化した株式会社に対抗しうるような強力な社会権を与えるという政策。
楠井敏郎『法人資本主義の成立・20世紀アメリカ資本主義分析序論』日本経済評論社、1994年、を読んでご覧なさい。
これはちょっとブックオフでは売っていないな。
それにしても、会社の「公益性」というのは、「会社が美術品を集める」ことに矮小化されるはずのものではないし、「儲けた人間が寄付すれぱいいじゃないか」という論法でもない。そもそも会社が自ら「公益性」を発揮することにあまり期待していないがゆえに、しかるべきありようを会社の外部から、国家が強制するしかない。会社の公益性にあたる英語は、PUBLIC RELATIONS だが、これを「会社が広告・宣伝すること」としか考えていないお粗末さ。「会社がヒトを雇ってあげることで社会貢献しているじゃないの」という能天気な言葉が「善意」で発せられるんだから、なにおかいわんや。
国家を支える人々が政治献金をたっぷりもらって営利法人を儲けさせることに励みながら、「経済政策つて、それ以外にあるの」とのたまうお粗末さは、言うも野暮なり。
ところで大土地所有者の存在は20世紀にはどうなったのか。いずれ、後で。
2016年3月2日、水曜日、午後11時、札幌の天候。穏やか。もう定期的な除雪排雪は3月はじめで終わらせるのが札幌の習い。
さあ春にならないかな。
マイナス金利の天気予報。前回、社会のバランスということを書いた。そして19世紀イギリスには地主階級が、社会の調整者として存在していたと書いた。現政権は日銀のマイナス金利である種の社会的構造変化を狙っている。そうすると、この問題をまともに考えれば、「変化するという社会」がもともとどんな根本構造なのかを念頭におかねばなるまい。こう考えるものだから、「表面的、技術的」考察を避けているのだ。
こんなふうに言われると、まったくこういう議論に慣れていなかった人であれば、かならずや、次のような疑問を感じるのではあるまいか。
1. 「経済表の世界の貴族階級・旧地主階級より上の方には、なにがあったのですか。」きまっておろうが。貴族の上に国王。その上に、精神的権威としてのローマ法王。なにしろキリスト教世界ですから。(ただ、イギリスの場合には、ローマ法王庁に反発していて、イギリス国教会というものを作っていた。)
2. ブルジョア革命が起こらなかった国では、どうなるんですか。やっぱり「近代的地主階級」が成立するのですか。
イギリス史やフランス史のようにはきっぱりと「近代的」には成立しない。旧来の貴族の性質をいつまでも引きずる地主になる。だからいつまでも地主が支配階級第一位の座を占めようとする。
3. 20世紀には、どうなるんでしょう。
一言で言うと、イギリスの近代的地主階級は消滅する。
いずれ、語る。
4. 日本は、どうなっているんですか。
下手なことを言うと、電波を止められてしまうから、ちょっと待って欲しい。当然の疑問であろう。
ものには語る順序がある。
2016年3月2日、水曜日、午前10時。札幌の天候。房から薄曇で、暖かい。風もない。昨夜の積雪はごく僅か。期待通りなら、明日から気温が上がり、「札幌の3月」らしくなるだろう。
マイナス金利の天気予報。ずっと「経済社会の中軸」である株式会社を、根本的検討の対象にしてきた。前回、奥村 宏さんの法人資本主義論に関連して、株式会社論の、経済学とのかかわりを話題としているが、その場合の経済学は、たんなる「金かね勘定の経済学」では狭い。社会の調整者が誰か。19世紀イギリス資本主義では、地主階級が、「社会の調整者」であった。(いずれこれが20世紀にはどうなるのかという議論になろう。)
ここでいう19世紀イギリスの地主階級は、「都会に50坪ほど土地を持っている人間」なぞというものではない。かつての封建的貴族階級(旧地主階級)が変身したもので、近代的地主階級であり、歴史的には「大土地所有者階級」と呼んだほうが誤解がなくて済む。
この19世紀イギリスの近代的土地所有者階級が、現実に社会的に果たしていた役割を総括してみよう。
1. 国家財政の主たる負担者であった。(土地所有税いわゆる地租)
2. 国家行政の主たる支え手であった。(いわゆる名士支配。法律家。地方の行政官。政治家の人脈、戦時の指揮官の人脈、大学進学者)
3. 階級間の調整者であった。(資本家階級を牽制し、工場法や普通選挙法の成立を助けた)
4. 投資資産の主たる提供者であった。(英国国債コンソル債の主たる買い手。19世紀株式の主たる引き受け手)
5. 消費資源の主たる消費者・とくに奢侈品の消費者。(物品税の納入者。)
6. 生産要素の非生産的使用について、巨大な地位を占めている。
等々。
どうしてこんな階級が成立したかって? もともと封建制末期には、人民の私有権というものは、旧地主に地代を支払うことを前提にしなければ決して成立しないものであった。有名な経済表タブロ-・エコノミークの世界をみたらわかるだろう。市民革命(イギリスのピュアリタン革命、フランスの革命)のような暴力革命は、旧地主のこのような土地特権を剥奪し、社会的には近代的土地所有に変えたのである。市民革命によって土地特権はイギリスでは剥奪されたが、しかし近代的地代として残るのである。これが近代的大土地所有者階級の成立である。資本家階級、労働者階級と共に、19世紀イギリスの3大階級と言われた。
ケネー『経済表』岩波文庫、1961年 また、19世紀イギリス史についてのしかるべき参考書 を参照のこと。
いずれもブックオフでよく探せば、たいした値段でなく手に入るかもしれない。
2016年3月1日、火曜日、午後10時、札幌の天候。今日は終日曇りで、ときどき雪がチラついたが積雪には至らない。ただ冷たい風がときどき吹いて路上でホワイトアウト現象が起こることがあった。(もつともときどき短い晴れ間もあった) 明日も午前は雪らしい。気温が定温になるには3月3日以降らしい。なかなか春になってくれない。
マイナス金利の天気予報は、このほど株式会社を話題にし続けていて、前々回「奥村 宏さんの著作で日本の現実を知る」よう薦めていた。
ところで近代経済学の教科書には、「企業の生産性」を扱う場面がある。「コブ・ダグラス生産関数」というものですよ。
企業の生産性には、企業が雇用する労働に関する「労働の生産性」と、企業が投資する生産手段の挙げる生産性の二つがある。この後者は「資本の生産性」と呼んだりしているが、全資本ではなくて、もっぱら物的な生産要素にかかわるものだ。
ところで企業が現実に挙げる「生産性効果」の中で、単一の「労働の生産性」効果には仕分けられず、単一の「投下資本の物的要素の生産性」にも仕分けられない部分が発生することがある。(それどころか、かなり発生するのが通例である。)このような部分をなんというのか。官庁の報告書などはこの部分を「要素生産性」「全要素生産性」なぞと呼称する。つまり「労働という生産要素のせいではない」「資本の物的な要素のせいでもない」しかし現実にその二者とは区別されて現れている「生産性」だと。政府の経済白書によく出てくる。
「労働」の部分でもない、「資本」でもない、しかし「企業」の全体に現れる生産性である、と。概念としてはこのように立つ。しかし内実の詳しい説明はブラックボックス。そうするとこの「企業のあげる全要素生産性」とは、論理的にはっきりしているのは、生産要素の組み合わせ方によるものだ、とするしかない。そうするとこういう「企業全体の生産性」は、生産要素の組み合わせ方を決断したトップ経営者のもっぱらなるお手柄というわけか。(そうであるかどうか別として、トップ経営者は異常に高い報酬を会社から得ている。)
奥村 宏さんももちろんこういう「企業論」を知っておられるだろうが、これには一切触れようとなさらない。
なにやら古典派経済学の個人資本家が「経営労働」することが、資本利潤の源泉であるという、悪名高い「経営労働」論と相通じますね。
だから「個人資本家もやはり労働者なのだ」「ただし経営労働者という特殊の労働者なのだ」と。これとどこが違うのか。
似たような議論を米国のクルーグマンという経済学者はよく駆使していました。(たいへん便利な議論なのです。)クルーグマンはこの「学説」を、共産圏諸国、低開発諸国、日本も含むアジアの諸国の経済を貶めるために、よく駆使しました。「労働を増やしたからといって」、「資本設備を増やしたからといって」、それらの国々の経済の生産性はちっとも進歩していない、と。(財政投融資で経済を活発化したばあいも、たいていこのクルーグマンが指摘したようになりますけどね。そうするといまアジア諸国にG20の会議が財政出動を求めたりしているのは、結局一時しのぎのことをしなさいよといっているのですね。)