インフォメーション

2016-03-14 01:33:00

 2016年3月14日、月曜日、午前1時、札幌の天候。零度前後で、曇り。雨雪なし。風なし。気温が低いのは北国なのでしかたがない。しかしもう水道が凍る心配はなくなった。肌寒いが、北国の春だろう、昨夜午後8時ごろ街の中をかなり車で通ったが、路面は黒々と光っている。幹線道路の南向きの歩道は、路面の雪がすっかり溶けたので、ズックでも歩行可能。

マイナス金利の天気予報。このところずっと、会社の話をしている。会社が経済社会の中心になっているから、こういう機会に、会社のありのままの姿をいろいろの角度から総点検したいのだ。

そこで、こういう話題も必要だろう。

会社ということになっていながら、とうてい会社とはいえない存在がある。とくに「一人親方」という実例をご紹介しよう。

大工なら大工が一人で事業を行なっているのだが、これを会社化している場合。この例が各地に意外と多くある。

べつに会社にする特別の理由はない。取引相手が「会社としか取引しない」ので、そうしている。

官庁の入札など、「会社」という資格を要求する場合が多い。

問題はこの「親方」が、労災に入れないでいることだ。

もしこの親方が一人でも職人を雇用していれば、その職人を労災保険に入れ、同時に親方も労災保険に加入できる。

しかし人一人雇用するのは大変なので、親方一人でがんばっているところが多い。

この親方が労災事故に会うと、たいへん悲惨なことになる。

ついこの間、クロス補修の親方が、この一人親方だったが、冬季に暖房代わりに現場で乾燥機の炎を強くして使っていて、これが引火しておおやけどし、ついに死んでしまった。この場合本人が労災に入れなかったので、本人を守る制度がなにもない。

現代はひとのきがつきにくいところに、意外な悲惨が隠れている。

もっともこれを法人企業制度のせいにはしにくいだろう。これは個人事業として、個人事業のまま、社会的な工夫がひつようであろう。

それにしてもしかるべき立派な法人企業が(建設方面にはいくらでも立派な法人企業が存在する)こういう人を雇えばいいのだ。

しかし企業はひとを抱え込まないで、外側に置く。そして「雇用」ではなく、「対等の取引」の形式にしたがるのである。

結果として建築業の周辺にいろいろの職種の大量の一人親方が(会社の名目で)いることになる。

 

2016-03-12 13:29:00

2016年3月12日、土曜日、午後1時。札幌の天候。朝から曇り。0度前後。断続的に小雪。うっすらと積雪する程度で、車の通行には差し支えない程度。なかなか春にならない。

マイナス金利の天気予報。経済社会の組み立てを、法人企業のありようを中心としてみる、という、大変のんびりした態度を続けて取っている。前回法人企業に勤務する人間を育てる高等教育機関を話題にした。米国であれば、それがビジネススクールである。これは大学院大学のようなものである。日本でも経営学の高等教育機関が1960年代ぐらいから話題になってきた。しかし今日に至るも、このような意味での経営学を主体とした理論的かつ実践的高等教育機関は、(すくなくとも圧倒的話題になるような学校は)皆無とみてよかろう。

我が国には戦前から高等商業学校が発達しており、戦後にこれらは商科大学として発展を続けている。また、高等学校のなかに特別の種類として商業高等学校が設立され、これが各地で発展してきた。法人企業へ勤務する専門人の養成機関として、この商業高等学校(高校程度)-商科大学(大学程度)が、非常に活躍してきたことは周知のところであろう。もちろん一般の高校、大学からも、法人企業を支える人材が送られている。

北海道の場合、小樽商科大学(戦前の小樽高商)の名は、特筆大書されてよかろう。私は昔新潟県の人にこんなことを聞いた。戦後間もなくの話として、「新潟県の青年にとっては、同じ日本海側の北端にある小樽商大に入るのが、夢だった。」今日でも小樽商大の卒業生の人脈は、厚く、広い。(単科大学で、学校規模が小さいのにね。)

なにしろ、伊藤整や小林多喜二を出したというほど、文学への広がりすらあった。(もっとも多喜二は、銀行員としてスタートしている。)

小樽商大にいた木曽栄作の商業英語は、キソのコレポンと言われて、全国的に盛名を謳われた。うんぬん。

日本人としては、別個にビジネススクールなぞいらなかった。

この学校が生み出した商業英語の教師の中に、立派な英作文教育ができる人々を輩出していたことは、触れて置いてよかろう。

 

 

 

2016-03-11 23:12:00

2016年3月11日、金曜日、午後11時、札幌の天候。今日は一日、曇り、気温は定温で、雨雪なし。穏やかな日だった。

5年前の今日、東北大震災。私はちょうどある店の前の庭にいて、ぐらっと大きく揺れるのを感じ、かなり遠いところで大きな地震が起こっている、と思った。それが東北大震災だった。

道内にも避難者が多く来られ、いまそれらの人々の中には、公的住宅支援を打ち切られ、現地への帰還を慫慂されている人も多いという。

北海道新聞3月11日号トップに、道内への避難者、現在2125人、うち最多が福島県で、1280人、となっている。

福島原発の後の健康被害を懸念して「もっと道内に避難を続けていたい」と思う人の気持ちは十分に理解できる。

私は、このさい、ごく限られた形ではあるが、福島原発被災地の方々に対して、住居を提供したい。どうぞメールなり手紙なりでご照会願いたい。

道内で就学中のお子さんをそのままお引き受けしたい。

当方が提供するのは、8.5畳の洋室・個室1室。家賃無料。ただ、共益費プラス水道代として月額6000円だけ申し受ける。敷金として2万円だけお預かりし、退去時にお返しする。修学期間に合わせた定期借家権契約にしたい。部屋はみたままの部屋でそのままお入りいただく。同居者はご相談だが、一人ぐらいなら可能ではなかろうか。家族親族が訪問宿泊されるのは自由である。

あるひとつの階に限定したいので、受け入れ人数には制限がある。

お願いは二つ、冬季に玄関前と自転車庫・プロパン庫へアクセスする通路の除雪について、ご協力ください。なお、融雪機モンスターがあり、その灯油はオーナーが供給している。

館内では「挨拶程度かんたんな英語でやろう」という私設新渡戸計画を実行するので、ご協力願いたい。

当方匿名を強く希望する。広く宣伝する必要なし。連絡方法はメールまたは手紙のみとする。いずれお会いでもしなければ、様子はわからないでしょう。またこの募集の条件に合う人かどうか、しかるべく客観的にご証明いただきたい。

 

 

 

 

 

2016-03-10 18:50:00

2016年3月10日、木曜日、午後6時、札幌の天候、ときどき小雪がちらつく。いまのところ積雪するほどではない。

マイナス金利の天気予報。前回、国内債権の海外売り出しという話題に触れた。

福島原発の損害についても、今頃になっていろいろわかったことが報道され始めている。(いままではマスクして隠していたのだ。)

福島原発は原子炉溶解が事故3日後に認められていたそうだ。東電も政府もそういう発表はしなかった。ただ、おやっと思うことは当時起こっている。米国は政府の指示で、米国人を東日本から一斉に退去させた。米国の独自判断か、あるいはしかるべき筋から米国政府に通告があったからか、原子炉溶解が起こっているのと同じ措置をとった。私は事故後仙台市に救援物資を送ったら、贈った相手に怒られた。「荷物を受け取るのにかなりの距離自転車に乗らなければならないが、それがたいへん危険なことだと知っているのか」と。しかるべき筋では仙台市が福島原子炉爆発の濃厚な影響を受けると判断していたのである。実際公式の報道でも福島からの放射物質が東京都に届くか否かが盛んに議論されていたし、静岡県まで飛んだというニュースもあった。

いま、じつは事故3日目にすでにこれだけわかった、と聞くと、ああやはりね、と思う。いまの福島の悪戦苦闘は、その流れで起こっていることである。4‐5年後は大丈夫などと誰が約束できるのだろう。

前回、法人企業の社員の米国での高等教育体制という話題をだしたが、たとえどんなにみみっちくとも、日本の法人企業の人材に関わる教育体制の実状を回顧し、たどってみる必要がありはしないか。

バターくさい法人企業という体制が曲がりなりにも日本で緒についたのはやはり第2次大戦後と、ごく最近のことであろう。まだ半世紀ていどしかたっていない。シャゥプ税制改革という米国からの指導を出発点として、税制の青色自主申告のような民主的税制が根付いてきたが、このような申告税制と、法人企業の会計制度の近代化は強く結びついていると思う。それまでの日本では、複式簿記制度など一般には行なわれておらず、大福帳(単式簿記方式)が常識であった。国民的にこの切り替えがすすむのがようやく1960年代ではなかろうか。

法人企業の形式だけは一般的なものとして宣伝されたから、しかるべき事業はたいてい株式会社化したが、しかしその内容は個人経営・家族経営に過ぎず、帳簿自体が形式だけのお飾りというのがおおくの実状ではなかったか。こういう会社にかかわる知見と技術が「経営学」「会計学」の名で世に知られるようになってきたが、その大部分が米国からの受け売りである。『経営学教科書』というカッパブックがよく売れ、それが「科学的経営法」とか、「ヒューマンリレーションズの重要性」を説いて世間を説得したが、現実に世間の会社が血道を上げていたのは、「労務管理」と称する「会社に労働組合を絶対に作らせまいとする画策」とか、業界団体との関係、政府筋に陳情する策略とか、はては暴力団との関係調整とか、支持する人間を当選させる選挙運動とか(かんがえてみれば多くの企業がいまでもあたりまえのように、同様のことをしている)、これをおもてだった経済活動といえるものかどうかという日常の中にあった。

それにしてもその同じ時に、ビジネス環境の近代化も進んだ。鷲ペンを使って伝票や帳簿に記入し、そろばんを使って計算する(3級以上でなければビジネスにはなるまい)、帳簿はきちんと閉じれられており、伝票は黒い紐できちんと括る。勘定科目に押すゴム印と会社のゴム印、手形を振り出すときに使う印字機と、手形無効の印であるペイド印。(米国の場合にはそろばんではなくて手回しの計算機を使っていた。)日本では1960年代を境にそれが次のようなものに切り替わってゆく。ペンに替えてボールペン。バインダー式帳簿の登場。そろばんに替えて電卓の出現。(これが1990年代にIT化してゆくわけですね。)

大学に経営学部を持ったらどうかという意見が出てくるのが1960年代。しかし最初は「仲間」すら相手にしなかった。というのも、最初は経済学部の中に「経営学科」をもとうというはなしなので、「仲間」の経済学者が容易に受け入れない。経済学部の中に経営学という講座もあるという程度ではなぜだめなのか、と。そもそも経営学なるものが経済学に対抗できるだけの素性があるのかと。いったい何を研究し、何を教えるのか。いったい担当者はどこにいるのか。結局一部の「商科大学」の地位をあげるだけのことではないかと。

(そういえば、それ以前から、商学という分野が存在したのです。)

 

 

 

2016-03-10 09:52:00

2016年3月10日木曜日、午前10時、札幌の天候、薄曇、0度前後の気温、風なし。降雪の天気予報が出ていたが、今のところ雪は降りそうもない。

マイナス金利の天気予報。前回、電気の発電と配電の話題に触れた。あるいは私は、社会的なリスクに敏感過ぎるのかもしれない。しかしいざというときには、結果が庶民の負担に終わる場合が多すぎた。

社会的なリスクといえば、私は1997年当時を思い出す。当時の日本は金融機関が危機の様相を示した。山一證券が破綻した年である。しばらく前までは貸し出し金利が8パーセントあるいはそれ以上であったものが、ぐんと安い金利になっていた。(以前の高い金利で契約していた人々はとうてい持ちこたえられなかった) 当時うちは北海道拓殖銀行からアパートローンを受けたが、そのときのことをよく覚えている。当時BISが国際的に活躍する銀行に対する自己資本金率を引き上げていた。私はこのローンの当事者ではなかったが、たまたま席にいたので、居合わせた拓銀の行員二人に聞いた。「資本金規制などもあるようですが、状況に困って貴行が倒産するようなことは、まさかないでしょうね」  行員二人は即座に大笑いして、「拓銀が倒産することはありえません。」と言う。拓銀が洞爺湖のそばに大きなホテルを建設して、「インキュベータ路線」を呼号していたのは、つい最近であった。ただ私の心の中に、日本で都市銀行15位になるこの銀行への、もしやという疑いがあった。

その後程なく拓銀が支払い停止のやむなきに至ると大蔵省にかけこみ、結局(当時であれば第2地銀の)北洋銀行に吸収されるに至った。

ところでこのとき、実はある大問題が起こっていた。拓銀は「債権を証券化して外国に売り出す」ということをすでに行なっていたが、ここで拓銀が倒産してしまうと、拓銀が外国に売った証券のありようが問われる。(日本としては海外に売るこの手の証券の最初の例だったという)おそらくは大蔵省がなんらかの手立てを講じて、結局この証券を海外から買い戻した。

しかしこのような運命をたどる原契約(のひとつ)になるには、実はこの原契約の内容に問題があったそうで、この件は後日某学会に発表された。したがって今詳しく知りたいという者はその某学会関係からしか情報は得られない。

この原契約は後に白紙になって、不動産もちゃんと戻ってきた。しかしもし大蔵省が当時何らかの配慮をしなければ、当時いろいろの拓銀なにやら証券の帰趨が問われたが、「当事者自己責任」とされる公算も大きかった。

現代は恐ろしい時代である。国民は常々、前代未聞のリスクにさらされる。