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2020-05-21 17:14:00
木曜日・晴れ・札幌。★道新1頁。「黒川検事長、辞職へ。賭けマージャンか」週刊文春が報じた由。最近の政局に話題の人物が、よもやの不祥事。(ネット世界はいまこの話題で荒れ狂っている。)★アベノマスク、今日届いた。そう大きい型ではない。一世帯2枚。「ああ来たか」という程度の感慨。政府はこれに何十億円使ったのだろう。せめて今より1か月前に来ていれば、もうすこしましな感慨になったろう。
2020-05-20 14:43:00
抗コロナサプリの件。★家人に聞いたら、玉ねぎは頻繁にサラダに使っているという。亜鉛のほうは、私が愛用しているエビオス錠(2000粒が1500円ほど。1食後10錠。)に、それなりの分量が使われていることが分かった。その他、牡蠣だが、これはときどき弁当に使われているね。なんのことはない普段通りの生活で、それなりに供与されていると分かった。★今日かかりつけのお医者さんへ行ったら、どこやらの申し合わせで、患者に聴診器は宛てないでいいということになったという。窓口では「薬だけの請求」でも申し込み用紙に書いて受けつけるようになっている。病院はがら空き。★帰途***に寄ったら、全店定休日という掲示。ただ、数店だけ開いている。ドーナツ屋に入ったら、店で食べるのは数人の入り。わたしはソーセージを挟んだパンとコーヒー一杯頼んだが、のんびりと持参の『ジュラシック・パーク』(英文)片手にコーヒーを飲む。こういうことを自宅でやっていると、無作法だとむやみに批判する家人がいるが、ここでは誰も批判しない。お客さんはみんなのんびりと環境を楽しんでいる。★何十日も変わらぬ環境ではあきも来よう。自然環境は気候の変化、季節の変化があっても、そうは変わらぬ。そこへゆくと社会的環境は、ふだんはあまり変わらないように思っていたが、こういう特殊の時代だと、思わぬ不思議な光景に出会う。★札幌市から例の「特別給付金」の通知書(受給申請書類)が今日到着した。世帯として家人の数の給付金を受け取れるようになっている。これから家人各自に意見を聞いてみよう。
2020-05-20 08:48:00
水曜日・曇・札幌。今日のウエブは、どうも抗コロナ薬の話題が目立ちすぎる。政府は、アビガン、レムデシビルの臨床投薬を盛んに口にし、さらにイベルナクチン、フサン、アクテムラ等の名を口にする。★しかしこれらは医師が臨床で処方する抗コロナ薬のようだ。患者になりたくない一般市民が口にして「無難」な「薬」は、ウナギか牡蠣、あるいは玉ねぎだそうで、いわば「対コロナ健康食」と言ったところ。「医師は毎日摂取、コロナ予防対策に役立つ2つのサプリとは」日刊ゲンダイ、5月17日配信記事。アプリに当たるものは、ウナギか牡蠣の場合は、亜鉛で、玉ねぎの場合は、ケルセチンだという。道理で最近玉ねぎの値段が上がってきたようだ。★マスクについては、最近いろいろな機会に、他人からマスクを贈られることが多く、なにやら「適当な贈答品」と化した感がある。アベノマスクがいまとどいても、「ああ来たな」という感慨程度しかない。安部氏も政府もだんだん軽くなってきた。
2020-05-17 18:09:00
冬季間に当方のアパートに、誰かの車が誤って突っ込んで、施設の一部が損傷を被った。修理は冬季間が終わってからにしようと思ったので、保険請求が春になった。事故当時警察署に届け出ていたので(交通課)、いま保険申請のために交通事故証明書を発行してもらおうと思った。★ところが私は警察署で交通事故証明書を発行してくれるのかと思ったら、そうではなくて、自動車安全運転センター北海道事務所に申し込むと、そこから私の家へ郵送してくれるという。センターへの申し込みは、警察署で手交してくれた郵便局の払込取扱票に記載事項を記入し、証明書交付手数料600円をその取扱票を使って郵便局に振り込めば、すでに警察に届け出た交通事故についてであれば、センターから私の家に郵送するそうだ。★こういう取り扱いになるとは、初めて知ったので、参考のためにここに記録する。詳しくは警察署にお問い合わせください。(こうと分かっていれば、保険会社が、この郵便局の払い込み取扱票をもろもろの保険請求書式と一緒に、前もって当方に届けてくれていればいいと思うのだが。)
2020-05-17 14:11:00
日曜日。江戸時代というたいへん原始的な設定の下でのマルチチュードをさらにいくつか挙げよう。★富籤(現代の宝籤)。公的な性質の主催者が、公的経費を調達する手段として行う。私人は、富籤の発行は許されない。この点は、現代でも基本的には同様である。江戸の町人が籤を買って、「当たればその***倍が授かる籤」に一時の夢を賭ける。むろん倍率から言って、その興行の全体では、籤を買った者の全員はかならず分の悪いリターンにしかならない・その差が興行元の「収入」になって、神社の鳥居でも作るのだろう。いろいろバラエティがあるだろうが、現代でも事情は同じ。誰でも興行できるわけではない。競馬、競輪、競艇、皆そうだろう。「たまたまの楽しみでやる」のだから、社会的意味もあるので、毎日のように行って賭けるというのは、本来おかしい。パチンコだってそうだ。★私人がこういう企画をする時には、現金を賞品にするのは、本来許されていない。「常識の範囲で」物品を賞品にするので、許されている。パチンコだって、麗麗と現金がもどってくる仕掛けと言うのは、元来おかしい。(しかし現実は、政府が賭博場を公認しようとしているように思える。そういう法律がこの前通過したものね。「博徒を糾合して常習的に賭博をなす者は云々」というわが刑法の条文は、いずれ改正される日が来るのかな。)★別に、こういう話がある。畳には四隅がある。最初の隅にコメ2粒を置き、次の隅には2粒の2倍、つまり4粒を置く。こうしてある家の中の全部の畳の隅に置けるだけのコメの総量をいただけないか。こういうビッドに応えたら、どういうことになるか。気の遠くなるほど大量のコメを相手に引き渡すことになる。ごくわずかな分量のものを次次とある規則の下に重ねてゆけば、結果が恐るべき大量になることは知れ切っている。この「数理」を、相手の無知に付け込んで相手に強要すれば、これは騙しである。まともな取引ではない。江戸時代の算術の本にたいてい出てくる話である。★現代だと、「国民全体」「国民各個」いくらずつで、日本国全体でいくら、という話が、話の持って行きようでは非常にトリッキーな議論になる。個と全体という話が往々トリッキーな内容のものになる。