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2026-09-15 18:11:00

9/13 村上「アンダーグラウンド」に引き続いて、それとの比較のために、五木寛之『風の王国』新潮社、1985年、について書きましょう。/この小説は、速水卓という主人公が、フタカミ講という理想の集団を見出して、その一員として生きようということになる、という話である。/主人公はトラベル・ライターで、雑誌社の仕事をしている。この人物の特徴は、ウオーキング(歩行)のマニアで、海外をかなり歩き回った。またかなりのカーキチで、むろんドライブは好きである。いってみればそう不思議ではない人物である。友人は「兄」とその愛人である歌手、それと喫茶店のマスター。/この話は速水がフタカミ講という「理想の集団」を見つけてそれにすっかり帰依するというに尽きるが、してみると、先に示した村上氏の構図と比較してみると、話はもっぱらフタカミ講という集団がいかに「世間」と対立し、自分のアイデンテテイのために戦っているかという話になるわけで、この話には西欧的な「独立の個人」というものはまったく存在しない。個人はそれが現に属している集団に規定されているわけで、「かれの属する集団」のみが話題足りうるのである。だから、「世間という集団」とそれに対抗する理想の集団(この話ではフタカミ講)の対抗だけが、問題足りうることになる。/

実はこの話は、急に始まるのではない。日本の太古の歴史以来の社会的構図がすでに存在しているわけである。それは日本史の太古、縄文人が長い歴史を送った後、大陸から弥生人が古日本島にやってきたが、その弥生人がもたらした稲作文化による「里の民」、従来の縄文人の「山の民」という対抗として数世紀送った後、「山の民」は相変わらず精神的支柱ではあるが、「山から里へ」(その反対にふたたび里から山へ)という「世間渡り=世渡り」という流れが人々の間に生じ、「政治権力を独占して君臨する里の民」(戸籍強制、課税強制、徴兵強制が三大権力基盤である)に対抗する「山の民」、「山から里へ・反対に里から山へ、世渡りする大量の人々」という「日本史を縦断する歴史上の社会的流れを生じた」。五木氏の、精神性の濃い「山の民」と権力者である「里の民」という対抗が、村上氏のいう権力構図に相当する。/そしてこういう歴史的構造を背景として、明治初期にフタカミ講という社会集団が生み出されたとして五木氏のこのストーリー・風の王国は、組み立てられる。つまりここからフイクションである。フタカミ講は、「山の民」を精神上の支柱としつつ、「山から里へ・里から山へ」「世渡りする集団」であるところの「自由な民の特徴」を断然維持する特別の結社なのである。(さもなきゃすっかり里の民に押しつぶされた生活になっているはずだ。すべての日本国民と同様に。) 日本歴史の方は、五木氏のこの本の巻末に詳しい参考文献表が出ており、五木氏としては史実のつもりである。ある集団に属するという性質でしか、独立の諸個人は問題になっていないことを再度指摘しておく。日本人一般にはこのほうがはるかにわかりやすい話なのだ。(そもそも欧米でも、独立の諸個人というものは、思想上しか存在しないのではないか。ここは難しい理屈のあるところだ。そうしたら、その思想的根拠を徹底して洗う必要があろう。手放しで言える話ではあるまい。難しいところだな。キリスト教でも、カトリックとプロテステントではこの点の理解が随分違う。)いま私は、村上氏と五木氏の対比だけにとどめておく。