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2026-09-13 16:28:00

村上春樹『アンダーグラウンド』講談社学術文庫、1999年を読もうと取り組んだまさにそのとき、私は五木寛之『風の王国』新潮社、1985年も、読もうとしていた。まったくのたまたまであったが、これは私に大変好都合となった。村上さんがオウムテロ事件を理解しようとした思考の道筋と、五木さんが『風の王国』で主人公たちの「フタカミ講」という集団の生き方を構想した思考の道筋が、基本的に同じパターンの課題を、ただし随分違う輪郭で、描こうとしているように、私には思えたからである。この「課題」そのものが難問であるから、二人の作家の取り組み方も難解を極める。それを少しでも多くの人にわかるようにしようとするさいに、この「随分違う輪郭」で行われている「描き方」を対比することで、思わぬ分かりよさが生まれはしないかと私は期待するのである。議論の仕方に多少の単純化が伴うことは、私の菲才としてお許し願いたい。私はノーベル賞級作家などではないからね。普通の知識人だ。//

単純に言うと、村上さんがオウムにかかわる事件で解こうとしている最大の謎は、どうしてこれほどの理科系・文科系のエリートと言ってよい人々が、オウム教祖麻原氏の「提示」した誘いに乗ったのか・どういうところが麻原氏の「教義」の魅力だったのか、という点である。『アンダーグラウンド』巻末の「目じるしのない悪夢」(734-777頁)が、わずか40頁余の短い文章であるが、村上氏の率直な「オウム事件全体から、村上氏が読み解く問題構造」を提示している。その中でも「肝中の肝」が上述の「謎」である。(その他の論点は、読者諸氏が直接に本書を読まれれば、十分に理解されるだろうと思います。)

「目じるしのない悪夢」は、8つの小見出しで成り立っている。その中の(1)から(3)までの内容から、村上さんが「オウム事件」に読み解こうとしている「核心にあたる問題構造」を、見たいと思います。

(1)「3月20日の朝に東京の地下で何がおこったのか?」では、村上さんがオウム事件に非常な違和感を覚えたこと、たんに「オウムと言う悪い奴らが、私たちに、とんでもないテロ行為を行ったこと」という感想にとどまらず、事件になにやら「居心地の悪さ・後味の悪さ」を感じること、この「居心地の悪さ」を「解読」したいと思ったこと、を述べている。それは「悪い奴らのテロ行為」というすでに語りつくされ、言い尽くされた言葉ではなくて、「おそらく新しい方向からやってきた言葉であり、それらの言葉で語られるまったく新しい物語(物語を浄化するための別の物語)なのだ---ということになるのかもしれない。」(739頁)ということになる。それはどんな物語だろうね。以下(2)(3)でその新しい物語の輪郭が提示される。

(2)「私はなぜオウム真理教から目をそむけたのだろう」では、オウム事件が「見たくもないもの」という嫌悪感を世人に(村上氏にも)感じさせるものだったが、これは実は今目の前にみるオウム事件が、いわばそれ自体実は「影の姿」(アンダーグラウンドという姿)であって、それなるがゆえにいよいよ、実は私たちが(村上氏も)見なければならない姿ではないのか。心理学的に言うと、「私たちが何かを頭から毛嫌いし、激しい嫌悪感を抱くとき、それは実は自らのイメージの負の投影であるという場合が少なくない。」(743頁)このことわけを一個の論理構造として、自我のありように絡んで表現すると、つぎのようになると村上氏は言う。

「こちら側=一般市民の論理とシステム」と、「あちら側=オウム真理教の論理とシステム」とは、合わせ鏡的な像を共有しているのではないか。「この二つの像は不思議に相似したところがあり、いくつかの部分では呼応しあっているように見える。それはある意味では、我々が直視することを避け、意識的に、あるいは無意識的に現実というフエイズから排除し続けている、自分自身の内なる影の部分(アンダーグラウンド)ではないか。」(744頁)そして次の(3)で、村上氏は問題の構造に最接近してゆく。

(3)「譲り渡された自己、与えられた物語」で、村上氏は一応の答えを与える。まあ、お読みください。まず村上氏は問題への手がかりとして、米国の連続小包爆弾事件犯人のユナボマーという人物のせりふを取り上げる。

「システム(高度管理社会)は、適合しない人間を苦痛を感じるように改造する。システムに適合しないことは『病気』であり、適合させることは『治療』になる。こうして個人は、自律的に達成できるパワープロセスを破壊され、システムが押しつける他律的パワープロセスに組み込まれた。自律的パワープロセスを求めることは、『病気』とみなされるのだ。」(ユナボマーがニューヨーク・タイムズに投書した文章の一部、745頁)

これ以下、(3)の最後まで、人間は物語を作って、物語で生きるしかなく、社会もまた物語によって成立しているのだという、たいへんな議論になっていて、これを「わかりやすく」ここで書き綴ってゆくと、まあたいへんだ。どうぞ真に理解したい人は村上氏のこの個所をお読みください・この本は当時よく売れた本なので、新刊ならもちろん古書としても簡単に・安価で・入手できます。なお最近売り出し中でよく売れている本で、Y.N.ハラリ氏『サピエンス全史』上下、河出書房新社、2023年(私は2026年というのを買った)という本が出ている。この人はいま評判がよく、その後何冊も出している。ひとが、社会が、物語を書くことから離れがたいというお話はここに全巻ながながと書いているから、お読みになるがよい。村上さんは同じことを30年前に簡潔にここに述べた。どっちを選ぶかはあなた次第。ただ、ハラリ氏についてゆくと、本代はどんどんかさんでゆくが、貴重な教養費ではなかろうか。

村上さんはよく考えてみればこれが自分という作家の取り組むべき創作活動そのものだったとしているが、本書の段階では、とても読者を納得させるほどのこの方面の実際の作品があったとはおもえない。ただ、これに先立って書かれた、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』をひきあいに出して、こで出てくる「東京都アンダーグラウンド」の怪物「やみくろ」に、オウム物語と同質の物語に自分が取り組んだとしている。これかまあ、本書に「アンダーグラウンド」というショッキングな表題がついた理由だろう。

そういうわけで、話は未完である。しかし村上氏は、氏がこれまでもっぱら欧米で物事をみてきたものを、これから日本に回帰して日本を見たいとしているわけで、そういう屈折が本書に流れている。私はそのご縁で、このあとを書きますよ(私個人もある意味でそうだからです。)

ここで私が、五木寛之『風の王国』をもってきて、関説しようとするわけは、私見では五木氏は、村上氏の「アンダーグラウンド」と論理的には同じ構造の問題を、日本人の発想と歴史的成り立ちから取り組もうとしているからです。村上さんの論法はやはり欧米の歴史的伝統を背景にした理解だと私には思われます。主体を欧米風に「独立の諸個人」としてしまうと、その論法は、少なくとも日本人には非常にわかりにくく、例証に乏しいものになります。(それで悪いとは言っていない。ただ日本人には非常にわかりずらくなる、と言っているだけです。「独立の諸個人」など日本の社会と歴史の中ではめったにありはしなかったからです。)そこへ行くと、五木さんはすっぽりと日本人の心情の中にある。