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2026-08-16 12:48:00

北海道銀行の新しいビルが大通りにできた昭和40年・1965年ごろの手形・小切手環境をたまたま回顧した前回の投稿だが、このつい昨日の北海道の商業環境は、いまや大多数の人々の記憶には全然ないのを知って、今昔の思いである。しばらく冗言を書こう。//なにせ北海道(日本)経済は15年戦争と言われた満州国建国・支那事変・太平洋戦争の期間に自由な商業など全然見られなくなっていて久しいところに、敗戦で、戦後はだんだん自由な商業を発達させてきた。手形・小切手も戦前同様使われるようになってきたが、それを使う人々にはまるで新規の技なのである。だんだん量が増えてきた手形も、現実にはその大半が当時急に伸びてきた自動車ローンの割賦手形である。銀行は毎日銀行間で手形交換して、そのときに手形を振り出し人の銀行口座から落とす。初めから口座振替で精算できる銀行間体制になるには今しばらくかかったのだ。そもそも北海道拓殖銀行以外の新銀行が北海道に誕生するのが大事件で、そんな人材が出来合いで大量に地元にいるはずがない。新規採用された人材中でも「銀行業務の経験者」が優先されたが、これが戦時中の日本のいろいろな金融機関の引揚者であったから、新銀行の業務内容がなかなか統一されにくかったのである。私が上司と仰いだお人は旧朝鮮銀行の出身であった。島本 融頭取は、大蔵省のヨーロッパ駐在財務官という要職にあったひとだが、大蔵省退職後の人生を新天地北海道の銀行業務にかけられた。この人は長野県の出身で、父親が島本銀行という個人銀行を建てて、若いときにその窓口にいたりもしたと自分で言ってもいたが、お客さんが窓口に若い自分がいると、信用できないと言って帰ってしまったりしていたと自嘲していた。(それじゃ官途について身をたてたほうか安心だものね)/私はこの銀行はもし外国人が窓口に現れて自分の小切手などを示した場合、実務的にどう処理するのか、内心危惧していた(当人が書くサインをちゃんと処理する手順があるのか)が、いろいろなことをがたがたいうのも気がひけるから黙っていた。(なにしろ私が外国為替を学んでいたと言ったら、店頭の行員が、あなたそういうが、この店頭の円ドル交換率の標示は、わたしの知るかぎり変わったことがなかったよ、為替相場が不変なのに、外国為替の特別知識なんか何の役に立つのかねとのたまうた。確かにね。実は正直のところを言うと、私の外国為替実務知識とは、戦前の横浜正金銀行時代の「支那為替」についてのもので、この知識であれば東京銀行の現在の職員と語り合っても十分なものであったのだ。戦前で為替知識と言えば、支那為替という難物に極まっている。)//しかも当時パーソナル・チェックという、銀行口座をもつ個人がふりだせる制度を始めて、さかんに客に勧めていた。私が見習いではぃつた支店の支店長は盛んに自分のパーソナル・チェックを切りまくって、これに当時まだ珍しいサインペンを使っていた。支店長というものは(次長が店内業務をすっかり吸収しようとするから)店内で業務があまりない。見習いの私を連れて午後に「集金」のために大口顧客を回ったりしたが、大量の紙幣をこの時支店長がその場で数えて受理するのを見ていて、支店長でも直接に大金を扱うことがあると思い知った。閑話休題。