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2025-11-05 07:01:00
最近、小室直樹『数学嫌いな人のための数学』東洋経済新報社、2001年を手にする機会があって、そこに示されている「論理のありよう」に、ショックをうけている。小室氏は「形式論理学」の骨組みを解説していて、私はこの「何気ない」解説の展開に目下圧倒されている。なにが「何気ない」どころか、恐るべき高度に知的な解説であろう。私の微才でもそれがわかる。そもそも私が若年のみぎり習った「論理学」では、「論理の組み立て」を、「1.宗教的論理、2.言語的論理、3.記号的論理」と説いていた。当時私は「この3つの論理」を別々の類型のように理解していた・たんに歴史的に1から2、2から3と発展したというように。教科書の著者や正確な題名は忘れた。しかし教科書それ自体にはこの3形式が「論理的に発展してそうなっている」ようには書いてなかった。ところが小室氏はこの著書で、それを「発展したように」解説している。ただ、正確のために断っておくが、小室氏の解説は、大変に歴史具体的に、イスラエル一神教の論理からギリシャ哲学におけるアリストテレスで大成される形式論理学、そして近代欧州の政治的には民主主義、社会的には資本主義の、いわば原始的リベラリズムの思考の発展に伴っていた科学的思考が、数学のような巨大な記号的思考の発展となって、これが非形式論理を展開するという思考上のパラダイムシフトとなった、と仰天の解説を行っている。この解説でいいとか悪いとかいう(当然に論理的にいわねば言ったことにならぬが)以前に、まずこの解説を正当に理解する「だけで一苦労している」。 //ただいま、11/5 Wedge配信 「世界を覆うリベラリズムの危機 日本がまもるべき価値観...『日本人フアースト』はなぜ誤りなのか?」と、それにつけられた77通のコメントをみていると、この争論ではいったい論理というものはどうはたらいているのか、大いに迷う。コメント側の諸氏にこの「問」をつきつけるのはいかにも酷だ。Wedgeさんのほうに問うほうが妥当だろう。いささかなりと言論に携わるお人が筆者ならなおさらのことだ。// 上記の文でお分かりのとおり、この小室さんの本は25年前の本だが、図書館ならあるでしょう。小室さんという人はたんに保守反動で片づく人ではないようですよ。逆に「リベラリズムの極致」ではなかろうか。// 上記の私の文で、「言語的論理」(論理学の教科書)を「形式論理学」(小室さんの本)と言い換えてしまっている。それに小室さんの本では、ユークリッド幾何学がギリシャの形式論理学の粋であるので、形式論理学から数学に代表される記号的論理への「普遍的思考」のシフトを「非ユークリッド幾何学の出現」という契機で説明しているが、これはむろん、ユークリッド幾何学が無効として消滅したという意味ではなく、それが限定的な性質のものとして確認されたということである。(数学は、幾何学という形では古代あるいはそれ以前、からあったが、近代は「平面」という空間意識を極限にまで拡大したから、もう代数とか関数とかいう概念で表すほうが合理的になつてきた)。 当然に形式論理学も言語的論理の世界では生き残る(ただ、哲学的に、多くの新参者たちに挑戦される)ことになる。// それにしてもギリシャのソクラテスの強調したような「定義」を重視するありよう(形式論理学的には、これは「同一律」)まで消えるわけではなかろう。// つまるところ、Wedgeさんに問うところは、あなたのキーワードの定義と、理論展開中のその定義の維持だけは、はっきりしてくださいよ、と「リベラリズム的」(ソクラテス的)注文を付けている、だけである。さもなきゃ論争しようもないじゃないか。