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2025-10-18 15:45:00
そもそも大塚久雄先生は、経済史家であって、経済学者とは思われていない。ご自身も自分が経済学者だとはしていないから、書く本の題名も「国民経済」であって、「国民経済学」とはしていない。しかし資本主義が国民的に確立していった英国を対象にして、英国に住む人間がその生活に根差して国民経済を国家的に構築した歴史的事情を論ずる対象である「国民経済」の姿は、まぎれもなく「国民経済学」の対象である。先生の英国国民経済の議論は、ともに「貿易国家」であったオランダとイギリスを比較しながらイギリスの国民経済の生成を論じられるのだが、「貿易」というものが国民の生活に根差して展開される場合(イギリス)と「貿易」のありようが国内には根本的な根がなく、国外の要因の組み合わせでしかない(大塚先生はこのような貿易を「トラフイーク」と呼んで、それが国民経済の真の資本主義的発展にはつながらないものとする)(オランダ)。大塚「国民経済」論では、イギリスの自立的国民経済の姿が強調され、とりわけ国民経済発展の基礎になる「資本」は「その根拠が国内にある・フアンド自前である」ことが「基本的特徴」として強調される。/なるほど、思い出した、たしかにこのとおりだった。「ただ、これは昭和の日本ではないかね」とあなた、率直に思うだろ。そのとおりだ。日本の世相では、昭和が終わる1990年代のはじめぐらいまでしか、「世相どおり」ではなかった。でもね、いまいう「昭和のなつかしさ」とか「昭和にはあった社会の夢」とかいうなら、これが「本体」だよ。1970年代まで、日本は「ものつくり」の勤勉国家を自負し、作ったものを外国が買ってくれさえすればそれ以上外国に何も期待しなかった。資本を輸出することは特に求めなかったし、特に強い軍備を整えて付近を睥睨したいとも思わなかった。外国の資本を受け入れるなど、ごめん被る。特に外国人に来てもらう必要はないし、たまに観光するか特別に留学するか以外は海外に特に行きたいとも思わなかった。「グーロバリズム」という声が遠くからきこえると、おぞけをふるった。そういう時代だったよ。/それがしってのとおり、1980年代を境に、ありていに言えば米国に強烈に迫られて、金融化、グローバル化ということが始まったのではないか。/この「金融化、グローパル化」は、大塚先生の概念では、「トラフイークという忌むべき特徴しかない貿易のごときもの」に当たるのだ。/大塚先生の本に書評がついているが、それらの書評の一つにいわく、大塚さんの西洋経済史は、立派で説得力のある業績だが、「西洋で金融覇権が成長していった」ことを捨象しているから、「現実的ではない」。よくぞ申された。まさにこの「西洋で発展したグローバルな金融覇権」(たとえば、ポンド本位制とかドル本位制だとかだよ)こそ、大塚経済史が「資本主義国民経済」の内容足りえないものとする「トラフイークなもの」だと、わたしは思うがね。/そういうわけで大塚「国民経済」論が、日本の国民経済を論ずるのに、現在も有効な知見だと思うのですよ。/これ、トッド氏の社会人類学と組み合わせると、「妙」です。
2025-10-18 15:14:00
国民国家の経済社会を取り扱う知見は、日本では近代に入って、「経国斉民の学」といわれるようになった。さて、今私たちが生きて、生活しているこの日本国で、どういう内容のものを「経国斉民の学」と考えたらいいものだろうか。勝手ながら、私が考え、行ってきたことをそのまま述べよう。私は、大塚久雄先生の「国民経済」論がそのようなものであると考え、人にもそのように話してきた。さて、今、大塚久雄先生の「国民経済」論は、書店ではどうなっているか見たら、驚いたことに「簡単に入手」できるのではないかと思っていた大塚久雄著が、確かに古書として扱う書店がたくさんネットにあるが、たいてい非常に高い価格で頒布されている。代表的著作は大塚久雄著作集だが(その第6巻が「国民経済」である)、たとえば「楽天」では、1冊3000円で出ている。「アマゾン」ではなんと同じ本が、(どういうわけか同じ本なのに)何種類もの価格がついていて、一番高いのが1冊6000円としてある。(復刻版出版のアンケートが某書店で募集されている。)図書館なら間違いなくたくさんあるから、初めて読む人ははじめから図書館に行かれたほうが良い。近年、昔よく読まれた社会科学・人文科学の本も、価格が暴落していて、たいがい100円か200円、多少読まれて500円、1000円はめったにない、という古書価格なのに、大塚久雄先生の本は日本国民によく読まれているといまさらながら納得した。
2025-10-16 18:07:00
浜田先生のように、「アダム・スミス以来200年の経済学の常識」とおつしゃるのなら、特にもう一つ、言わせてください。それは「株式会社」の取り扱いです。経済学上周知のとおり、アダム・スミスの想定する国民経済では、資本家というものは「個人資本家」としてしか想定されていません。アダム・スミスは、株式会社という法人形態を、「私人」が利用していいものとは考えていません。「私益に奉仕する株式会社は不真面目である」というのが、アダム・スミスの見解です。明瞭に社会の公益を内容とする事業しか、19世紀中葉までの当時の資本主義社会は、株式会社形態をとりうるものとはしていません。有名な株式会社は、「英国東インド会社」(国益に奉仕する)、中央銀行である「イングランド銀行」とか、あとは、運河会社、鉄道会社(公益ら資するものとして)とか、でしょう。こういうことを真正面から論じている人がいました。森 杲(あきら)『株式会社制度』北海道大学図書刊行会、1985年です。/株式会社のどういう点が「私益問題」としてとくに重要になるのかというと、株式会社が発行した株式が株式市場で売買されることを通じて、株式の配当は株式の現在の持ち主にとっては、結局社会の平均利子率程度にだんだんなってゆきます。その際に、株式会社が配当はすでに出しているが、その残余に相当の利益を残していたとすると(それを仮に企業利益と名付けますが)、この「企業利益」は経済学上どういう範疇になるのか、そして誰がこれを手中にすることになるのか、という問題が生じます。ステークホルダーは誰か、ですよ。もしスミスに同じ質問をすれば、「公益に帰せしめよ」というに違いない。実際にはみながよく知っているように、「企業経営者」がこれを当然のように抑えてしまいます。まあ特権的大企業だからこうなるので、実際にはあらかたの「株式会社」は日本では赤字でしょうけどね。法人重役がその会社の普通の従業員の100倍も、1000倍も、1万倍も(非常識な例示だとはだれも思わないでしょう。実際そういう実例がごろごろしているので)あるというのが、不思議だとは思いませんでしたか。貨幣金融的巨大な幻というとき、国民経済の上部にあるこのようなエリートたちの姿は、まさにこの幻の中の核心的姿です。資本主義がこういう法人資本主義の姿をあたりまえのように取り始めるのが、19世紀末以降ですね。だから浜田先生が言われるスミス以来200年というのは、こういう屈折の中においてしか考えられないのです。/森 杲氏の本は、なかなか図書館でもえられないかもしれない。奥村 宏氏の本ならかなりあるかもしれない。これもまあ、大変な法人企業の実像を伝えています。たとえば、奥村 宏『21世紀の企業像』岩波書店、1998年、奥村 宏『株とは何か』朝日文庫、1992年。
2025-10-16 08:54:00
日本国民が現在、どうしようもない少子化・人口の漸減的減少、に陥っているという状況だ。裏返せば、人口の高齢化ということでもある。子供は一向に生まれず、ふえない一方で、科学的・産業的に人間の寿命を抜本的に伸ばす・伸びる・という発明・発見・開発が日々進んで、いまでは人生100年というのでなく、130年ぐらい、あるいはもっと果て無く伸びるのではないか、と真顔の報道がはびこる。/世の国民経済的論議が、この「宿命的少子・人口減少社会」なるが故の「国民経済実体のデフレ現象」は、とうてい否定しうるものではないという強力な立論に傾いて、もうここ30年になるぞ。日本の国民経済の21世紀の長期大不況の原因というなら、根本的には、この人口減少・デフレ経済によるのだろうという「認識」は日本国民全体の議論から常に離れることはない。/ただ、その「断固たる対策」となると、急にみな黙り込むのだ。/むろん、ここに、「指導的人々」は、「深い根本的学理から出発して」、デフレは貨幣的現象だから、貨幣をじゃぶじゃぶ市場に提供するのが、基本的対案で、あえて非伝統的かもしれなくとも、金融・財政政策のウルトラC発動で、対応するのが「常識」だろうと。ああだこうだとすったもんだはしたが、ご承知のごとく、現在わが日本が貨幣・金融的に展開しているのは、極く低金利のもと、貨幣をじゃぶじゃぶ市場に提供する政策である。二、三日まえにわたしはブックオフで浜田宏一『アメリカは日本経済の復活を知っている』講談社、2013年という本を220円で買ったが、「貨幣をじゃぶじゃぶ市場に提供する」聖なる反デフレ政策をこれほど誰にもわかりやすく(著者は社会学的に書いたとのたまっている)説明した本は少ない。ひとつだけ単純ないちゃもんを付けておく。著者はこの聖なる学説は、「アダムスミス以来200年間の経済学上の常識」に従っていると言う。だがね、アダム・スミスが国民経済学を構築したとき、かれが国民経済として把握していたのは、いわば国民経済の実体であって、貨幣・金融的現象が実体経済から相対的に遊離して幻のように実体経済の上に大きく漂うなぞという現代のような姿ではない。それにスミスにとっては、国民経済はたいへんにリジットなものであって、いわゆる生産の三要素(資本、土地、労働)は国際移動しないという原則にしている。国際移動するのは基本的には商品のみとされていた。だから貨幣流通は国際的にはあり得ないものとなっていた。現代のように為替取引にあたるもののほんの数パーセントしか実体取引(つまり商品貿易取引)がないなぞという現実はとうていこの国民経済学には想定しうるものではなかったはずだ。スミス以来200年と開き直られても困るのだ。/せつかく貨幣をじゃぶじゃぶ「市場」へ流しても、その実際の効果は、国民経済の実体側と、まぽろしのような巨大な貨幣金融的世界と、どちらに大きく貢献するだろうかね。まさか株価は天井知らずに高騰を続ける同じ時に、生活して生きている国民の大部分が、全然好景気とはおもえない、とつぶやく図が、その都度観察されるのではないだろうね。その「経済」、おかしいじゃないの。これが同じ日のおなじ国民経済の姿かね。あきらかに上下真っ二つに割かれた姿ではないか。アダム・スミス氏は真っ二つに上下に割かれた国民経済などまったく想像もできなかったろうよ。浜田先生がいかにいらついても、日本銀行が常になにやら煮え切らない様子をしていたのも、日本銀行は国民経済実体における健全な通貨調節ということからどうしても目をそむけられなかったのであろう。アンベノミクスは結局日本銀行を押し切った。まあいずれにせよ現在の貨幣・金融体制は、よくもわるくも緊急非常のものさ。日本も、世界もだ。それで、ひるがえって、日本の少子化の理由を一考してみたい。
2025-10-15 15:06:00
この『人類史』開巻第一章は、いってみればトッド人類学へ初めての読者を誘うために工夫されたものなのだが、そのくせ、非常に特殊な内容を主題として説き起こされている。この『人類学入門』の全体が、日本国民の政治をトッド流社会人類学で読み解くというわけだが、そのとっぱじめが「日本から家族が消滅する日」という恐るべき題になっている。とり急いでこの第1章の「結構」を示すと、この第1章が日本の女性論として終始しているところが面白い。まず、日本という国民国家の特徴を社会人類学的な「家族の構造」から特徴づける。1.それは「直系家族」という型だ。(これはドイツと同じなのだ。)これを詳しい地域特性を付けて説く。2.日本が少子化を招いているという国民国家の政治的特徴の理由を説明する。3.日本人の女性の権利(女権)の特徴を「アジア東北部では一番強い」と喜ばせてくれるが(ただ、私は、疑うわけではないが、これ本当かな、と思うが)、一転して、「アジア東北部では最も原始的だ」と来る。/このようにめっぽう家族論として語っており、ほかの議論には一切しない。//実はここで近代西欧の成立、民主主義の成立を、トッド氏がどう読み解くのかという話はすっかり外しているのだが、(むろん本論中で詳論されている箇所がある)、ここを外してあるので、日本人には難しくなく、トッド理論のさわりがすんなり理解できるのである。仮に西欧近代を普遍とする信念に立てば、すんなり理解できるものではなかろう。近代西欧の民主主義の成立は従来マックス・ウエーバーの難解な説明があって、私もそれに従っていたが、トッド氏の理解はおなじく社会学でもウエーバーとはずいぶん違うのだ。これを論じているだけで、分厚い本一冊はまちがいなく必要だ。それを今は省いているのである。/ここで読者が、「同じことが英米仏ではどうなの」と来ると、この本は結構を変えて出直すしかない。さっき私が書いたように、180年前のイギリスの看護婦さんは、看護に献身しながら、なんとその政治的行動で女性を解放してしまっているよ。こういうのはどう読み解くのかね。それは「核家族」の含む原始的な自由という属性の表れなのだが。いまはこの程度でご勘弁を。