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2016-09-14 21:39:00
9月14日・水曜日 日ハム、オリックスに敗れる。札幌ドーム。11対1. 投手有原。ソフトバンクは勝っているので、パリーグの首位はソフトバンク。
2016-09-14 11:57:00
野球の試合にはその試合ごとにドラマがある。私たちはそれを楽しむ。それにしても、ドラマを描き出して発表するには、それだけの力量が必要だ。観客が「すごいドラマだ」と感じても、そのドラマを正確に他人に伝えるのはなかなか難しいと言っているのである。試合の次の日の新聞を見ると、とても具合よく、かつは正確に、ドラマが伝えられている。現に観戦したのであれば、ドラマの感激が再び蘇る。日本ハムは北海道民に、こういうものを見る楽しみを与えてくれた。(むろんその時々に相手になったチームも。)★ 『北海道新聞』2016年9月14日号20ページ。昨日の日ハム、オリックス戦で勝ち越し点を挙げた日本ハムのショート、中島卓志選手の武勇伝が写真入りで語られる。中島選手はこの日のヒーローになった。★ 7回裏の同点、2死2塁のチャンス。日本ハムはここで1点取って終盤に持ち込みたい。逆にオリックスはそうはさせたくない。バッターは1番西川、よく当たっているバッターでこの日も調子が良い。そこでオリックスは西川を歩かせ、2番の中島との勝負にしようとした。★ 中島選手はふだんはあまり当たっていなかった。よくファウルを打って粘る選手として知られていたが、そのファウルも、相手の投手にたくさん投げさせるためと、あわよくば4球を稼ぐためである。いざというときにヒットを打つイメージは小さかった。★ それだけに中島選手は、いざというときにヒットを打つことを絶えず考えていたのであろう。★ どの野球選手にもそういうことはあるかもしれない。しかし今の日ハムが、選手こぞってそのような気合が特に入っているというわけだ。がんばれ、日ハムファイターズ。
2016-09-13 22:36:00
数回前に、丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年で、日本語文章を考えてみようとしたことを書いた。この本は現代日本文どころか歴史をさかのぼって古代の日本文を仰ぎ見ているし、漢文の特徴も論じているし、英文の傍証もどっさり出してくる。よくても悪くても、文章を考える上でおおいに堪能した。★ この人の書いた文章をもう少し読んでみようと思ってブックオフへいったら、昭和文学全集23、小学館、1987年というのがあって、その中に丸谷才一も入っていた。値段200円。「横しぐれ」「にぎやかな街で」「だらだら坂」「贈り物」「年の残り」「歴史といふ悪夢」「未来の日本語のために」「日本文学早わかり」という丸谷の作品が収録されている。後藤明生氏が「丸谷才一・人と作品」を書いているが、これはたいへんな人物で、国文学者であるが、同時にジョイス『ユリシーズ』の翻訳者で研究者でもある。作家でもある。(芥川章受賞者)当然にいま私なぞが考えていることの上を行っている。★私は従来、小説は好きだったが、たんに内容の面白さだけで読んでいたので、結局伝奇ばかり読むことになった。それが丸谷氏に触発されて、いま初めて文章を読んでみようとしている。自分にとっての文章の必要を感じ、小説の中にもっとも文章があるだろうと予感し、小説の文章を読もうとする。★ 気がついてみると、これが学校の国語教科書がよくやる現代文読解なのだろうな。それを私は受験参考書経由ではなく、まったく自然発生的にやろうとしているわけで、これ、楽しそうじゃないの。もっとも今更東大に入るのでも一橋に入るのでもないから、まったく趣味の域です。
2016-09-13 21:47:00
どう作文するかという話の続きをする。私が米国で出会ったものの中で一番びっくりした「文物」は、英文をパラグラフで把握するというありようである。米国の大学の1年次に「アカデミック・イングリッシュ」という授業が必修であり、そこで英文パラグラフの構成や運用を実習させる。英文はだれでも書くかもしれないが、この授業に当たるものを学習していなければ、大学の授業はとうてい受けられないだろう。私は日本では、やれ文型だ、やれイディオムだ、やれコロケーションだと、人並みには勉強していたが、英文パラグラフの組み立ては、米国で初めて学んだ。★ 途中を端折る。さて日本に帰ってきてすっかり驚いたのは、誰も英文パラグラフなど意識していないことである。よくよく探してみたら、ある米国人が日本で英文パラグラフについて書いた薄い参考書1冊をみつけた。(当時米国からワードスターというソフトを持ち帰った。これも、誰も知らなかった。)★ さて年数がたつにつれて徐々に、英文パラグラフ教育が日本でも行われるようになって来た。★ そのころ(だいぶまえの話です)北大を出られた国語学者で神谷さんという人がいたが、現代日本文を、パラグラフ構造をなすものとして理解しようという活動をしていた。(この人は故人になられた)私はこの現代日本文の手法が英文パラグラフの応用であろうとすぐ感じたが、不思議なことに神谷さんは、この手法が英文パラグラフのまねだとは一言も言わない。なにか昔から日本語に備わった要素であるかのように扱う。★ 私はのちに、かの谷崎潤一郎が、文法というときに当然のように英文法を取り入れているということを知った。おもうに実際に英文法や英文構成法を取り入れていながら、あたかもそれが国語固有に存在していたかのような擬態を示すのが、現代国語の伝統なのかもしれない。★ 英文法を取り入れて悪いとは言っていない。問題は国語固有でも何でもないものを、あたかも国語固有のものであったかのように扱う姑息さである。★これでは万年、国語は成熟できない。
2016-09-13 21:24:00
文章と言えば、むかし学校で作文を書かされたことを思い出す。他人に強制されて文を書くのは、いつでもいやなものだった。★ それに、今思うのだが、作文の課題はよく与えられたが、「どう文章を書くのか」という指導を受けたことはなかったように思う。★ もちろん作文の「題」はその都度ある。「遠足」とか、「**の思い出」とか。しかしその作文をどう書くのかという指導がない。生徒は、そんなことを聞きもしないし、先生もそんな質問を受けようとは、日本では、夢にも思っていない。★ もしかりにそういう質問を先生が受けたら、先生はどうこたえるだろう。きっとこういうだろうな。「正直に、事実を、ありのままに書きなさい」「君が思った通りのことを、正直に書きなさい」ここで求められているのは、「正直に書くかどうか」ではなくて、「どう書いたらいいか」である。★ 途方に暮れた生徒は、結局のところたいへん自然に、「起こったことを起こった順に」つまり時間の系列で、書こうとするだろう。あるいは、これも時間の変形であるが、出会った場所の名前を順番に挙げてゆく(道中記形式ですね)。★ 私は一度こういう経験がある。以前米国にいたとき、作文と創作の混じったようなクラスを取った。教師が家の写真を示して、「この家のことを記述しなさい」という。私は聞いた。「どのように書くのですか。家を中から見たり、外から見たり、いろいろの書き方がありはしませんか」先生はこう答えた。「その家の外側に立った者が、だれがみてもそう見えるようなその家の主要な特徴を、記述したらどうだろう」英米ではあいまいな指示は出さない。この場合誰が見てもそうなるような特徴の記述を求める。