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2016年3月2日、水曜日、午後11時、札幌の天候。穏やか。もう定期的な除雪排雪は3月はじめで終わらせるのが札幌の習い。
さあ春にならないかな。
マイナス金利の天気予報。前回、社会のバランスということを書いた。そして19世紀イギリスには地主階級が、社会の調整者として存在していたと書いた。現政権は日銀のマイナス金利である種の社会的構造変化を狙っている。そうすると、この問題をまともに考えれば、「変化するという社会」がもともとどんな根本構造なのかを念頭におかねばなるまい。こう考えるものだから、「表面的、技術的」考察を避けているのだ。
こんなふうに言われると、まったくこういう議論に慣れていなかった人であれば、かならずや、次のような疑問を感じるのではあるまいか。
1. 「経済表の世界の貴族階級・旧地主階級より上の方には、なにがあったのですか。」きまっておろうが。貴族の上に国王。その上に、精神的権威としてのローマ法王。なにしろキリスト教世界ですから。(ただ、イギリスの場合には、ローマ法王庁に反発していて、イギリス国教会というものを作っていた。)
2. ブルジョア革命が起こらなかった国では、どうなるんですか。やっぱり「近代的地主階級」が成立するのですか。
イギリス史やフランス史のようにはきっぱりと「近代的」には成立しない。旧来の貴族の性質をいつまでも引きずる地主になる。だからいつまでも地主が支配階級第一位の座を占めようとする。
3. 20世紀には、どうなるんでしょう。
一言で言うと、イギリスの近代的地主階級は消滅する。
いずれ、語る。
4. 日本は、どうなっているんですか。
下手なことを言うと、電波を止められてしまうから、ちょっと待って欲しい。当然の疑問であろう。
ものには語る順序がある。
2016年3月2日、水曜日、午前10時。札幌の天候。房から薄曇で、暖かい。風もない。昨夜の積雪はごく僅か。期待通りなら、明日から気温が上がり、「札幌の3月」らしくなるだろう。
マイナス金利の天気予報。ずっと「経済社会の中軸」である株式会社を、根本的検討の対象にしてきた。前回、奥村 宏さんの法人資本主義論に関連して、株式会社論の、経済学とのかかわりを話題としているが、その場合の経済学は、たんなる「金かね勘定の経済学」では狭い。社会の調整者が誰か。19世紀イギリス資本主義では、地主階級が、「社会の調整者」であった。(いずれこれが20世紀にはどうなるのかという議論になろう。)
ここでいう19世紀イギリスの地主階級は、「都会に50坪ほど土地を持っている人間」なぞというものではない。かつての封建的貴族階級(旧地主階級)が変身したもので、近代的地主階級であり、歴史的には「大土地所有者階級」と呼んだほうが誤解がなくて済む。
この19世紀イギリスの近代的土地所有者階級が、現実に社会的に果たしていた役割を総括してみよう。
1. 国家財政の主たる負担者であった。(土地所有税いわゆる地租)
2. 国家行政の主たる支え手であった。(いわゆる名士支配。法律家。地方の行政官。政治家の人脈、戦時の指揮官の人脈、大学進学者)
3. 階級間の調整者であった。(資本家階級を牽制し、工場法や普通選挙法の成立を助けた)
4. 投資資産の主たる提供者であった。(英国国債コンソル債の主たる買い手。19世紀株式の主たる引き受け手)
5. 消費資源の主たる消費者・とくに奢侈品の消費者。(物品税の納入者。)
6. 生産要素の非生産的使用について、巨大な地位を占めている。
等々。
どうしてこんな階級が成立したかって? もともと封建制末期には、人民の私有権というものは、旧地主に地代を支払うことを前提にしなければ決して成立しないものであった。有名な経済表タブロ-・エコノミークの世界をみたらわかるだろう。市民革命(イギリスのピュアリタン革命、フランスの革命)のような暴力革命は、旧地主のこのような土地特権を剥奪し、社会的には近代的土地所有に変えたのである。市民革命によって土地特権はイギリスでは剥奪されたが、しかし近代的地代として残るのである。これが近代的大土地所有者階級の成立である。資本家階級、労働者階級と共に、19世紀イギリスの3大階級と言われた。
ケネー『経済表』岩波文庫、1961年 また、19世紀イギリス史についてのしかるべき参考書 を参照のこと。
いずれもブックオフでよく探せば、たいした値段でなく手に入るかもしれない。
2016年3月1日、火曜日、午後10時、札幌の天候。今日は終日曇りで、ときどき雪がチラついたが積雪には至らない。ただ冷たい風がときどき吹いて路上でホワイトアウト現象が起こることがあった。(もつともときどき短い晴れ間もあった) 明日も午前は雪らしい。気温が定温になるには3月3日以降らしい。なかなか春になってくれない。
マイナス金利の天気予報は、このほど株式会社を話題にし続けていて、前々回「奥村 宏さんの著作で日本の現実を知る」よう薦めていた。
ところで近代経済学の教科書には、「企業の生産性」を扱う場面がある。「コブ・ダグラス生産関数」というものですよ。
企業の生産性には、企業が雇用する労働に関する「労働の生産性」と、企業が投資する生産手段の挙げる生産性の二つがある。この後者は「資本の生産性」と呼んだりしているが、全資本ではなくて、もっぱら物的な生産要素にかかわるものだ。
ところで企業が現実に挙げる「生産性効果」の中で、単一の「労働の生産性」効果には仕分けられず、単一の「投下資本の物的要素の生産性」にも仕分けられない部分が発生することがある。(それどころか、かなり発生するのが通例である。)このような部分をなんというのか。官庁の報告書などはこの部分を「要素生産性」「全要素生産性」なぞと呼称する。つまり「労働という生産要素のせいではない」「資本の物的な要素のせいでもない」しかし現実にその二者とは区別されて現れている「生産性」だと。政府の経済白書によく出てくる。
「労働」の部分でもない、「資本」でもない、しかし「企業」の全体に現れる生産性である、と。概念としてはこのように立つ。しかし内実の詳しい説明はブラックボックス。そうするとこの「企業のあげる全要素生産性」とは、論理的にはっきりしているのは、生産要素の組み合わせ方によるものだ、とするしかない。そうするとこういう「企業全体の生産性」は、生産要素の組み合わせ方を決断したトップ経営者のもっぱらなるお手柄というわけか。(そうであるかどうか別として、トップ経営者は異常に高い報酬を会社から得ている。)
奥村 宏さんももちろんこういう「企業論」を知っておられるだろうが、これには一切触れようとなさらない。
なにやら古典派経済学の個人資本家が「経営労働」することが、資本利潤の源泉であるという、悪名高い「経営労働」論と相通じますね。
だから「個人資本家もやはり労働者なのだ」「ただし経営労働者という特殊の労働者なのだ」と。これとどこが違うのか。
似たような議論を米国のクルーグマンという経済学者はよく駆使していました。(たいへん便利な議論なのです。)クルーグマンはこの「学説」を、共産圏諸国、低開発諸国、日本も含むアジアの諸国の経済を貶めるために、よく駆使しました。「労働を増やしたからといって」、「資本設備を増やしたからといって」、それらの国々の経済の生産性はちっとも進歩していない、と。(財政投融資で経済を活発化したばあいも、たいていこのクルーグマンが指摘したようになりますけどね。そうするといまアジア諸国にG20の会議が財政出動を求めたりしているのは、結局一時しのぎのことをしなさいよといっているのですね。)
2016年2月29日月曜日、午後11時、札幌の天候、続。午後、各家庭は、これまで積もった水っぽい積雪の除雪に追われた。ヤフーのお天気情報では、今晩夜半から明日朝まで、札幌は滅多にない吹雪に見舞われるかもしれないと。
マイナス金利の天気予報。現在の経済の現実に軸になっている株式会社についての論議が続いている。
前回は、奥村 宏、法人資本主議論を紹介した。この問題を議論するものは必ず奥村説についてまず徹底した学習が必要だろう。
ところで、この奥村・法人資本主義論は、経済学とのかかわりを拒絶している。
そのこと自体は、わからぬでもない。
近代経済学のマクロ経済学は、その中軸に位置している「企業」の性質をまったく「ブラックボックス」のままにして議論している。これではとても現実的な議論はできない。
マルクス経済学は、「企業の規模の大きさ」、「企業の生産力の発達」を、まるで錦の御旗のように、その価値を信じきっている。規模だけが、生産力だけが、絶対的な価値ではあるまいに。「独占」を議論すればすっかり「独占」ばかりの議論をしたがる。
こういう経済学が、現実にかかわれるものかどうか、奥村さんはきっと嫌悪感をもたれるのだ。私は、この点では奥村さんを支持する者である。
しかし、まったく経済学とかかわりなしに、議論を進められるものなのかどうか。
仮に株式会社が奥村さんのいわれるような「まともな」性質のものでありさえすれば、それで経済社会はうまく立ち行くものとおもわれますか。
19世紀のイギリス資本主義の場合には、地主階級が「社会の調整者」としてふるまっていましたね。経済社会がいわゆる「資本主義経済の自律性」を持ちえたとしても、その上に社会の調整という議論があります。地主階級のような「調整者」がいたから、19世紀のイギリス国家は「自由放任」と嘯いておれたのではありませんか。(しかし20世紀にはそういう条件はないんですよ)
2016年2月29日・閏年・月曜日、午前9時。札幌の天候。朝からまるで雨でも降るような勢いで小粒の雪が降り続いており、視界が曇って、ホワイトアウト状況。さいわい風はそれほどではないが、もしこれで風が強ければブリザードになるだろう。昨夜来の積雪は10数センチ。午後から雪はやむという天気予報だが、午後になってみなければわかるまい。明日は雪という天気予報。なかなか春になってくれない。
マイナス金利の世相の、天気予報。株式会社を取り上げてきた。
前回、19世紀イギリスの資本主義では、営利事業には株式会社制度の適用が社会的に認められていなかったと書いた。
19世紀末から20世紀初頭になると、ちょうど世界史的に重化学工業の振興期にあたったこともあって、事業の資本規模を拡大するために営利事業に株式会社制度が採用されはじめるようになった。
しかしこの過程は考えるべき様々の問題を残している。たとえば独占資本主義は、その一例。ケインズなりマクロ経済学なりのように、「企業」を当然の前提のように議論するのは雑な議論であろう。
私達日本人には、株式会社制度を根本から反省するための必読書がある。奥村 宏『法人資本主義‐‐「会社本位」の体系』朝日文庫、1994年などの、奥村 宏さんが執筆した一連の著書である。これらは第2次大戦後50年間の日本の歴史的現実を詳細に踏まえているので、日本人には身につまされるほどよく分かる。
奥村さんの議論のほんの一例。
「法人企業」はヒトではないのだから、その法人企業が当然のように政治献金するのはいかがなものか。
「法人企業」は元来生産的投資を集める手段だとおもうが、それが別の企業を買収することを目的にしたり、なんら生産とは無関係な活動を主力としたりするのは、いかがなものか。
ぜひウイキペディアで奥村 宏と引いて、みていただきたい。
1966年以来2013年までに及ぶ「法人資本主義」関係の大量の著書名が示されている。
「法人による株式所有によって成立する日本の資本主義を法人資本主義と名づけた」(同ウイキペディア「奥村宏 実績」より)
法人資本主義を、
1. 株式所有の空洞化をもたらしつつ、業績にかかわりのない株高構造を支える。
2. 系列内外を問わず業務提携を支える持合が、企業経営に対する監視機能を喪失し無責任体制を構造化、ひいては、
3. 会社不祥事の続発に歯止めをかけることのできない経営構造を生み出し、
4. 死ぬまで会社にしがみつく「会社本位人間」が成立する前提とすらなっている、
と(奥村 宏は)分析した、と同ウイキペディア中に書かれている。
「マクロ経済学」の日本の経済社会についての現実が、このような「法人資本主義」体制であったことを度外視して、たんに教科書的に日本の「マクロ経済」を語ることは、空疎であろうと思うよ。