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2016-03-18 20:28:00

2016年3月18日、金曜日、午後8時、札幌の天候。晴。気温6度。昨日もいい天候だったが、今日もいい日。ただ、今後はまた悪くなりそうだ。

マイナス金利の天気予報。ずっと法人企業を話題にしていた。話題をそちらへ戻す。

以前、商業世界というのは、経済学ではマルクス『資本論』第2部「資本の流通過程」が全巻かけて論じていた、と書いた。商品経済と見えるのは、マルクスに言わせれば、個別諸資本の回転が絡み合って現れて居るもので、一言で言うと「資本の回転」の全様相であろうと。(その意味で、資本の流通、と呼んでもよろしい。)

ところで、です。ここで「資本」といっているのは、「産業資本」のことだが、「産業資本」は資本の総称であって、それは、生産資本(狭義の産業資本)、金融資本(銀行資本)、商業資本という3形態に派生する。

さて、です。いま私たちが「法人資本」というのは、実に20世紀的な資本形態だが(そしてまちがいなく現代の経済社会の中軸だが)、「法人資本」というとき、私たちは自然に、生産的な・産業的な巨大資本をイメージし、それと合わせて、巨大な規模の銀行資本をイメージ゜します(つまり、金融資本を)。

しかしにわかに商業をイメージすることはありません。「商業的」なものならイメージするかもしれないが、商業そのものはイメージしない。

すくなくとも日本の場合、戦前には商業に巨大法人企業は存在しない。存在したのは米国のほうです。たとえばシアーズ・ローバック。

ところで私たちがみている前で、日本でも戦後、巨大な法人企業が小売商業の世界に現れることになった、イトーヨーカドーや、セイユウや、ダイエーなどですね。小売商業の一角から消費大衆の利益を呼号して、スーパー群が現れ、流通革命と言われた。セイキョウ・生活共同組合もまた、この流れに入るとおもいますよ。

これまた法人企業形態をとってますます巨大化し、ついには流通界のさまざまな分野にコングロマリット化するに至った。戦後半世紀の歴史上最大の経済的事件のひとつでしょ。

こうして小売商業もまた法人企業形態から無縁ではないことを証明しました。

こういう過程で、日本の零細小売商業は全滅してしまったのですね。おなじ過程で、日本の小生産・小農業もまた、全滅に瀕しています。ひとことでいうと、小生産の壊滅です。いまや個々人は、法人企業に雇用されるか、さもなければ滅びるしかないのです。その意味で、世は法人の「社員時代」なのでありましょう。もうひとつの生き様は、生活保護の受給者にでもなるしかない。

ところでこの小売商業という分野は、結果的には同じく法人企業形態の支配するところとなったが、その過程でなにやら不思議な論理を示しています。これを正面きって議論する必要がありはしないかと思います。

1970年代ごろ、セイキョウ運動が盛んだった頃、(市民セイキョウの発展期ですね)いろいろ議論していました。「消費者主権論」とでもいうのでしょうか。あの頃はみな「セイキョウ」とは市民運動の一形態だと思っていました。そうするといまのセイキョウはなんなのだろう。

マルクス経済学のほうでは、吉本隆明さんが、超資本主義論、高度消費経済論を説いていました。

20世紀資本主義を考える場合、私は、小売商業という分野をどう考えるのかという議論を欠かせないと思います。ここから現れた動きが、既成の大メーカーと大銀行の秩序をゆすぶったという事実を、度外視できないと思います。その意味で法人企業論は一枚岩ではない。

この議論が意外に難しい議論だということは、感じていただけると思います、しかしこういう「法人資本論」の切口もあることを提案している分には、みなさんにご理解いただけると思いますが。

これは皆さんの人生史でもあるのだから、多少論点がぶれてもナマのお話をもってきて再考するほうがわかりよい。ちょうどいい本がありました。佐野真一『カリスマ 中内功とダイエーの戦後』日経BP、1998年。これを議論の切口にしてみたらどうでしょうか。(皆さんの人生からあらゆる小売商業が消滅してゆく歴史ですね。)吉本さんの本も切口になるでしょう。吉本さんもこうやって読むと面白いのです。

ところで私、前回だったか、申告納税はシャゥプ勧告から、と書きましたが、あれは間違いだと気がつきました。正しくは昭和22年(1947年)からだそうで、2.1ゼネスト中止の混乱を乗り切る緊急策だったそうです。しかし税制として定着することになった。武田昌輔『法人税回顧60年』TKC出版、2009年 の11-13ページに、書いてあります。それにしても、法人企業とは何かということが、確たる内容としてはなかなか定まらなかったのが現実の歴史だということは、この武田さんの本を読むとわかるのです。税制史は法人企業とはなんぞやというぬえのような問題と取り組んできたんですね。この本自体がそのような優れた切口になります。

このように具体論で押してゆくと、なんでも参考になるのですよ。

たんに抽象的に、法人企業とはなんぞや、とやっていたのでは、前進はありません。ネスパ。

 

 

 

 

2016-03-15 23:20:00

2016年3月15日、火曜日、午後11時、札幌の天候。今日の札幌は曇り、小寒かったが、雨雪はなかった。

東芝が中国の家電メーカーの傘下に入るらしいというニュース。ついさきごろ、シャープが台湾メーカーの傘下に入ると発表されたばかりだった。あれほどかって日本を誇らしく代表していた家電が、つぎつぎとアジアのメーカーの傘下に入るとは。

私の弟は電子回路の研究者だったが、若い頃の研究発表の多くが、「同種の製品はすでにあるのだが、こういう工夫をすると性能的にそう違わない製品が3分の1か4分の1で出来る」というものだった。「日本のメーカーでそれに興味をもつ会社があるの」と聞くと、「残念ながら日本のメーカーはこういう発想にあまり興味を持ってくれない」と言っていた。日本のメーカーは絢爛豪華な諸機能を備えた高い機構を開発するのが好みで、こういう高級品を先進国市場に高く売ることで高い付加価値を手にするのがお得意だった。

しかし低開発国では単純な機能しかない製品を激安で買うのが需要で、日本は低開発国向きの製品での戦略に失敗し、気がついたときには追跡不能になっていた。戦後の歴史の中で、経営の舵の取り方を失敗したというしかない。

かつて米国の自動車メーカーは、まるでガソリンを振りまいて走るような大型車を得意としたが、石油が貴重になるにしたがって日欧の小型車に追い上げられることになった。それにしても米国の自動車メーカーは、消滅せずに存在しているよ。

 

2016-03-14 19:06:00

2016年3月14日、月曜日、午後7時、札幌の天候。日中晴で、風はあったが、ひどく寒いとは感じなかった。

ところで午後6時ごろにわかに数十分、大粒の雪が降ってきたので驚く。もっとも、それっきりで、路面に積もりさえしない。

たまたまビデオ「禁じられた遊び」を入手して、みた。忘れかけていたメロディーを思い出して反芻する。

遠い昔、松島の瑞巌寺にいたる長い参道の途中で、この曲を爪弾いていた青年がいた。

当時どうしてこんなに長い参道があるのだろうと、内心不思議だった。

西暦800年ごろだったか、貞観の大地震とそれに伴う大津波が襲ったときのおそらくは記憶で、こんなに海岸から離して瑞巌寺を作った。

今度松島湾を襲った津波は、瑞巌寺までは届かなかった由。

 

2016-03-14 01:33:00

 2016年3月14日、月曜日、午前1時、札幌の天候。零度前後で、曇り。雨雪なし。風なし。気温が低いのは北国なのでしかたがない。しかしもう水道が凍る心配はなくなった。肌寒いが、北国の春だろう、昨夜午後8時ごろ街の中をかなり車で通ったが、路面は黒々と光っている。幹線道路の南向きの歩道は、路面の雪がすっかり溶けたので、ズックでも歩行可能。

マイナス金利の天気予報。このところずっと、会社の話をしている。会社が経済社会の中心になっているから、こういう機会に、会社のありのままの姿をいろいろの角度から総点検したいのだ。

そこで、こういう話題も必要だろう。

会社ということになっていながら、とうてい会社とはいえない存在がある。とくに「一人親方」という実例をご紹介しよう。

大工なら大工が一人で事業を行なっているのだが、これを会社化している場合。この例が各地に意外と多くある。

べつに会社にする特別の理由はない。取引相手が「会社としか取引しない」ので、そうしている。

官庁の入札など、「会社」という資格を要求する場合が多い。

問題はこの「親方」が、労災に入れないでいることだ。

もしこの親方が一人でも職人を雇用していれば、その職人を労災保険に入れ、同時に親方も労災保険に加入できる。

しかし人一人雇用するのは大変なので、親方一人でがんばっているところが多い。

この親方が労災事故に会うと、たいへん悲惨なことになる。

ついこの間、クロス補修の親方が、この一人親方だったが、冬季に暖房代わりに現場で乾燥機の炎を強くして使っていて、これが引火しておおやけどし、ついに死んでしまった。この場合本人が労災に入れなかったので、本人を守る制度がなにもない。

現代はひとのきがつきにくいところに、意外な悲惨が隠れている。

もっともこれを法人企業制度のせいにはしにくいだろう。これは個人事業として、個人事業のまま、社会的な工夫がひつようであろう。

それにしてもしかるべき立派な法人企業が(建設方面にはいくらでも立派な法人企業が存在する)こういう人を雇えばいいのだ。

しかし企業はひとを抱え込まないで、外側に置く。そして「雇用」ではなく、「対等の取引」の形式にしたがるのである。

結果として建築業の周辺にいろいろの職種の大量の一人親方が(会社の名目で)いることになる。

 

2016-03-12 13:29:00

2016年3月12日、土曜日、午後1時。札幌の天候。朝から曇り。0度前後。断続的に小雪。うっすらと積雪する程度で、車の通行には差し支えない程度。なかなか春にならない。

マイナス金利の天気予報。経済社会の組み立てを、法人企業のありようを中心としてみる、という、大変のんびりした態度を続けて取っている。前回法人企業に勤務する人間を育てる高等教育機関を話題にした。米国であれば、それがビジネススクールである。これは大学院大学のようなものである。日本でも経営学の高等教育機関が1960年代ぐらいから話題になってきた。しかし今日に至るも、このような意味での経営学を主体とした理論的かつ実践的高等教育機関は、(すくなくとも圧倒的話題になるような学校は)皆無とみてよかろう。

我が国には戦前から高等商業学校が発達しており、戦後にこれらは商科大学として発展を続けている。また、高等学校のなかに特別の種類として商業高等学校が設立され、これが各地で発展してきた。法人企業へ勤務する専門人の養成機関として、この商業高等学校(高校程度)-商科大学(大学程度)が、非常に活躍してきたことは周知のところであろう。もちろん一般の高校、大学からも、法人企業を支える人材が送られている。

北海道の場合、小樽商科大学(戦前の小樽高商)の名は、特筆大書されてよかろう。私は昔新潟県の人にこんなことを聞いた。戦後間もなくの話として、「新潟県の青年にとっては、同じ日本海側の北端にある小樽商大に入るのが、夢だった。」今日でも小樽商大の卒業生の人脈は、厚く、広い。(単科大学で、学校規模が小さいのにね。)

なにしろ、伊藤整や小林多喜二を出したというほど、文学への広がりすらあった。(もっとも多喜二は、銀行員としてスタートしている。)

小樽商大にいた木曽栄作の商業英語は、キソのコレポンと言われて、全国的に盛名を謳われた。うんぬん。

日本人としては、別個にビジネススクールなぞいらなかった。

この学校が生み出した商業英語の教師の中に、立派な英作文教育ができる人々を輩出していたことは、触れて置いてよかろう。