インフォメーション
地球史だから地理学だろう、と話を振っても、そう簡単に出口があるわけではない。そもそも地理学というのが、決して取りつきやすい部門ではない。/たとえるならば、国語と文法の関係が、歴史と地理の関係に似ている。文法という部門はいわば国語という部門のルールを扱っていて必須の部門だが、全然面白みがない。歴史は地理の姿がどどっと流れてゆく様相を示すから、流れはわかるが静止したときのデテールはない。地理は静止の姿で示されるから一見して何かわかった気になるが、しかし流れが伴わなければ死んだ知識だ。/これは静止の姿が念頭にない者が流れだけ説明されても、具体像がいつもどこにもなければ空虚な思いをするしかないのと同じだ。地理の姿をしつかり念頭に置きながら流れを観察せよと言われる。(米国の歴史の教科書が、冒頭非常な頁数を使って米国地理を詳しく説明してあるのを見たことがある。日本にはこういう歴史の教科書はまずない。)地理は見るものがそのいくつかの部分について、その最近の過去は?それはこれからどうなるのだろうか?という思いを以って見ていると、そこにある地図が生き生きと動き出す。/私のいいたいことは、歴史と地理という二つの視角をうまくない混ぜてものを見ることが、歴史認識にも地理認識にも必要だということだ。//地理学というのは、気候、水系地理、地形などの「自然地理」が、「植物地理」、「動物地理」という「生物地理」に、そして「自然地理」と「生物地理」が、つまりつづめて言うと「自然」が、己も動物の一種たる「我々人類」にどう関係・影響するのかを主題として取り扱う、のであろう。それにしても19世紀末以来、生物における進化、人類における進化という動きが重要な観察点になつてきた、という具合に読める説明が、ヴィダル・ド・ラ・プラーシュ『人文地理学原理』岩波文庫、1940年初版、の上巻18頁あたりに書いてある。要するにこの「人文地理学」は、自然の、人類の生活に対する影響を、生物の進化という時間的要因をみながら、論じているわけである。(今日の地理学であれば、地質の歴史にもある種の進化概念を伴うかもしれぬが) はっきり言って、このような人文地理学の姿であれば、自然地理は人類の生活のたんに与件であって、人の活動が自然の成り立ちを撹乱するという視点は乏しいであろう。(もっとも、それがまるでないとは言わない。たとえば、「地味を痩せさせる」ような人間の活動は、さすがに気が付く。三圃制というのは、人間によるその対抗策でもある。)ただ一般には、ただ地理学と言えば、人間活動に対して受け身の存在だろう。/そういうわけで、急に処方箋はない。//この『人文地理学原理』に解題を書かれた飯塚浩二先生は、このような「人文地理学」に「歴史学の筋を通すべく」、まあ早く言えば唯物史観を(人類の生産の場における生産関係の歴史だね)入れるよう示唆されている。(1939年12月ですからね。ずいぶん昔の、昭和14年です。)しかし唯物史観を導入しても、人類がもっぱら主体的で、自然の方が単に与件、という構図は変わりませんよ。