インフォメーション
私たちがふだん使う言葉は、日本語という国語であろう。ただしこれは、「私たち」がいわゆる「健常者」の場合であって、「私たち」が「聾唖者」である場合には、生まれついてから「口語」が全く聞こえない環境下で生育するから、「口語」に習い覚える機会がありえず、したがって「口語」が使えない。この場合「聾唖者」は、「順当には」身振り手振りを見分して身振り手振りのみで他者と意思疎通することになろう。/私は半世紀前に米国で、こういう現実と事実を認識し、米国で「聾唖者」が、身振り手振りだけで意思疎通する「言語」、「米国手話」と言われていた、を使っている状況を知り、(1980年代のボストン大学の構内で行われていた米国手話の「講習会」・聾唖者を家族にもつ人々に米国手話を紹介するサークル、に参加した)実際に自ら体験する機会があった。ちゃんとテキストや参考書があった。/繰り返して念を押すが、これは「英語とは全く異なる」言語である。英語とはまったく別個の言語である。/米国も昔からこうだったのではない。昔は、米国も、「英語に強く依存した性質の手話」を聾唖者に強制していた。「グラハム・ベル氏」という「電話の発明者」が、この「英語に強く依存する手話」の強力な唱道者で、このイデオロギーで聾唖者教育を専断したのである。(このベル氏のイデオロギーが今に至るも日本の福祉世界を専断しているのではないか。そういう歴史的事情を日本では話題にすらしていないのではなかろうか。)/日本人である人々の多くがいまだに親しんでいる「聾唖者教育」の物語は、今となっては随分昔の、ヘレンケラー女史と教育者サリバン先生の物語じゃありませんか。サリバン先生が幼女ヘレン・ケラーの手の平に、WATERと急いで指で綴って、幼女がいま触っているのがほかならぬ「水 WATER」であると知らせる「感動の場面」がありましたね(教科書に書いてありましたね)。これは「英語」という「健常者の」言語に密接に依存した仕方でしか聾唖者にことばの教育をしていなかった明瞭な事例ではないか。//1/19 北海道新聞 4頁に、このページを全部挙げて、「日本手話は私の大事な言語です 少数者の権利 守りたい」「札幌聾学校の学習権裁判」という素晴らしい特集記事を、編集委員 関口裕士さんは用意された。//私はなおクレームを付けたい。もう一歩も二歩も踏み込んでください。上記の私の経験は、半世紀も以前のものだ。ベル氏のイデオロギーが全盛だったのはさらにそれより何十年も昔だよ。//いまも昔も日本は米国にいろいろ学んだ。今日も、トランプ氏という異色の政治家が米国に登場して、日本の政権政党の総理大臣に強い影響を与えているようではないか。いまちっとは米国の聾唖者が待遇されているありようを教訓にしたらどうだろう。むろんこれは総理大臣にではない。日本国民に訴えます。
)