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2026-01-03 21:12:00

昨年1年、道新と朝日を毎日見てきたが、端的には、2016年以来明瞭になってきた国際リベラリズム「反省」の世界的思潮にどう竿を差すかが目下の肝要事かと思いますよ。ここが第一の問題提起にならぬ議論の構成は、今の時宜に合いません。/その点で、道新の紙面よりは、朝日の紙面の方が、連日問題提起の意識が強く、私なぞもついつい朝日の記事に誘発されて、何か書くことが多かったのでした。/そこで、と言っては何ですが、今日の朝日の7頁に、ある歴史家が、歴史を顧みて何事か考えるという気風が現在にあっては世に不足しているようだと、1頁に亘って嘆いています。「過去の年月の経験を整理して物語にして、これを将来のモラルにする」という書き出しで始まっています。/失礼ながら、これはダメですね。日本の中等・高等・の歴史教育でもこんな「警世」は「舌足らずだ」。これは「歴史を物語としてまとめて、教訓にする」という「イストワール」(歴史、それも物語日本史のような奴)の考えで、中学ぐらいの歴史の授業でやるんじゃないか。司馬遷の歴史観の次元ですね。これだと国王の治世が歴史の区分でしょうな。まあ英国史だと、「ヴィクトリア女王時代」というような区分で、日本史だと、はあ、大正時代などというのがそれか。高校くらいになりますと、今度はヨーロッパの歴史家などが引き合いに出されてきて、「歴史は時代の出来事の個性を見分けるのだ」などと、同じく「歴史的物語」でもなんやら自然主義文学みたいになってくるから、「教訓」というよりなにやら「情感」のある歴史記述が「賞味」されます。「フランスの市民革命」と「イギリスの市民革命」では「なにやら違う情感」を生徒も感じて、歴史が好きになったりするのですね。そして大学生となると、史的唯物論などという仰天の歴史に学生は出会うわけですね。大学の史学概論という講義で「世界観論」という「史観」を考えるように仕向けられるわけだ。どうして現実に行われている日本の歴史教育の諸様相を単純化なさるのかな。