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2025-10-26 08:41:00
『トッド人類学入門』Ⅱ「ウクライナ戦争と西洋の没落」を、私は、4つの話題を主題にして、ご紹介しよう。今回はその1「英米覇権のゆらぎ」だ。この第2章は、トッド、片山杜秀、佐藤 優という3氏の対談として掲載されている。/現代世界の混迷の由来は、民主主義が試練を迎え、西欧(とくに米英)による覇権が揺らいでいることにある。そもそも米英の覇権は、米英の「核家族」を背景に生まれたが、この「核家族」は「最も原始的な家族構造」でありながら、「最も先進的な社会(近代民主主義社会)」を築いたという、奇妙なパラドクスを行った。近代民主主義は、個人主義を出発点とし、個人が生まれながらに自由という権利をもつ、お互いに平等な社会である、という「人類普遍の真理」とされるわけだが、国民的家族型を背景にした歴史的現実から見れば、個人主義が明瞭なのは英国(と米国)だけ、フランスがそれに準ずるのである。「核家族」という背景が重要である。英国(と米国)は「平等」の確保が甘い。フランスの方は「平等」の確保が強い。以上を要するに、英米仏にとっては近代民主主義が「普遍」と受け取れる歴史的事情があるが、「直系家族」型を背景とするドイツと日本は、やはり近代民主主義という政治思想を受け入れはしたが、なにがしか忸怩たるものが残るのである。西欧社会は世界人口の25%程度を占めるが、残余の75%の世界は家族型では「それ以外の様々な共同体」型であり、近代民主主義には一層なじみにくい。「アラブを爆撃して、フェミニズムという人類普遍の習俗を受け入れさせようとする」なそが、「暴挙」なのは、いうまでもない。ただ西欧が、それが暴挙であることに気が付かないほど、自らを普遍と信じているのである。それに、経済的平等を欠いたありようを人に強要したり、富の所有における超自由主義を人類普遍の自由と信じたり、普遍的民主主義からみてすら妙な社会を作ってそれで異としないなぞ、すでに民主主義の自己矛盾ではなかろうか。今日、個人主義は、原点に戻って、重大な反省を必要とするだろう。そもそもなんらかの集団なくしては個人も個人ではありえないではないか。たとえ利己的なホモ・エコノミクスでも、その行動を規定するものとして、家族、宗教、国家があるのではないか。今後自由度が格段に高い仮想通貨が現実になるとしても、これを社会の安寧のために強力に規制する公権力を確立せねば、悔やんでも悔やみ足りないことになろう。