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2025-10-16 18:07:00
浜田先生のように、「アダム・スミス以来200年の経済学の常識」とおつしゃるのなら、特にもう一つ、言わせてください。それは「株式会社」の取り扱いです。経済学上周知のとおり、アダム・スミスの想定する国民経済では、資本家というものは「個人資本家」としてしか想定されていません。アダム・スミスは、株式会社という法人形態を、「私人」が利用していいものとは考えていません。「私益に奉仕する株式会社は不真面目である」というのが、アダム・スミスの見解です。明瞭に社会の公益を内容とする事業しか、19世紀中葉までの当時の資本主義社会は、株式会社形態をとりうるものとはしていません。有名な株式会社は、「英国東インド会社」(国益に奉仕する)、中央銀行である「イングランド銀行」とか、あとは、運河会社、鉄道会社(公益ら資するものとして)とか、でしょう。こういうことを真正面から論じている人がいました。森 杲(あきら)『株式会社制度』北海道大学図書刊行会、1985年です。/株式会社のどういう点が「私益問題」としてとくに重要になるのかというと、株式会社が発行した株式が株式市場で売買されることを通じて、株式の配当は株式の現在の持ち主にとっては、結局社会の平均利潤程度にだんだんなってゆきます。その際に、株式会社が配当はすでに出しているが、その残余に相当の利益を残していたとすると(それを仮に企業利益と名付けますが)、この「企業利益」は経済学上どういう範疇になるのか、そして誰がこれを手中にすることになるのか、という問題が生じます。ステークホルダーは誰か、ですよ。もしスミスに同じ質問をすれば、「公益に帰せしめよ」というに違いない。実際にはみながよく知っているように、「企業経営者」がこれを当然のように抑えてしまいます。まあ特権的大企業だからこうなるので、実際にはあらかたの「株式会社」は日本では赤字でしょうけどね。法人重役がその会社の普通の従業員の100倍も、1000倍も、1万倍も(非常識な例示だとはだれも思わないでしょう。実際そういう実例がごろごろしているので)あるというのが、不思議だとは思いませんでしたか。貨幣金融的巨大な幻というとき、国民経済の上部にあるこのようなエリートたちの姿は、まさにこの幻の中の核心的姿です。資本主義がこういう法人資本主義の姿をあたりまえのように取り始めるのが、19世紀末以降ですね。だから浜田先生が言われるスミス以来200年というのは、こういう屈折の中においてしか考えられないのです。/森 杲氏の本は、なかなか図書館でもえられないかもしれない。奥村 宏氏の本ならかなりあるかもしれない。これもまあ、大変な法人企業の実像を伝えています。たとえば、奥村 宏『21世紀の企業像』岩波書店、1998年、奥村 宏『株とは何か』朝日文庫、1992年。