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2025-10-13 15:27:00
じつは私は、年来、アングロ・サクソン流の民主主義に、正直のところひとつ大きな違和感をもっていた。それは普遍的に民主主義を語る際に「個人主義」を絶対の前提として語る仕方である。私個人は、この社会に生きるについて、自分が属している何らかの社会集団、家族もあろう、地域社会もあろう、職場もあろう、学校もあろう等々、をまったく除外して自分個人を考え、語ることはとうていできないと思っている。それがなぜアングロ・サクソンは、まったく当然のように「個人主義」を人類普遍の原理として考え、行動し、語ろうとするのだろうか。/最近ある政党の総裁が、自分が総裁になった以上、働いて働いて働くと口走り、話題になったが、私個人はこういう考えは十分理解できる。さっそく想起するのは次の歌詞であった。「海の男の艦隊勤務、月月火水木金金」。旧日本帝国海軍の「勤労意欲」をよく表している。「蛍の光、窓の雪」とは、たゆまず学ぶことを教えている。「青年老いやすく学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」もそうだ。「二宮金次郎の銅像」はたえず働くことを人の務めとして示している。日本の社会に絶えず流れていた勤労の教えは、簡単に日本人の想念から消えはせぬ。昔英国のコーンウォールで英会話を学んでいたころ、機会があってサザンプトン港に滞在した。そこのパブリックライブラリーで図書を閲覧していて、20世紀冒頭この土地に日本人海軍士官の一団が生活していたが、「その人々が休みのない生活をしている」とあきれて書いてあった文章に出会った。(ナニ私もその人々の子孫なのだろう、休日になってもさっぱり遊ばないと、冷やかされていたので)これは日露戦争の開戦に先駆けて、英国に発注した軍艦を日本に回航する任務を負った士官たちだとすぐに気が付いた。